第1章 あなたの為 ( 1 )

 仕事を辞めた。

 正確に言うと、今日で辞める。


 専門学校を出て新卒で入った会社。

 3年とちょっとくらい働いただろうか。

 何か会社に対して不満を抱いていたということはない。寧ろ、規則もしっかりしていて仕事内容も人間関係も給料もそんなに悪くはない。

 所謂ホワイト企業だと言って良い。

 そんな優良物件を手放す決断をした自分は、我ながら阿呆だと思う。

 辞めると言い出した時は、優しい周囲の人たちが沢山の心配の声をくれた。先輩も、上司ですら何か気に病んでることはないかと気遣ってくれた。

 でも、そこまでされてでも私の意思が揺らぐことはなかった。



 ギチギチに人が敷き詰められた朝の電車の中で、私はドア側の手すりにもたれ掛かりぼんやりと外を眺めていた。

 いつもならすとんと落ちたこの長い黒髪が満員電車で揉みくちゃにされて苛々するのだが、今日は全てに「最後だから」という前置きが付いているからか、全くストレスに感じない。

 寧ろ、まだ電車を降りてないのに「ああ、こんな事もあったなあ」と、もう既に懐かしさに浸ったりしている。

 あとは、耳に装着されたワイヤレスイヤホンから、今朝配信開始されたばかりの推しの新曲が流れているのも、穏やかな気持ちで通勤時間を過ごせている要因のひとつかもしれない。

『次は東京、東京。お出口は右側です。』

 車内アナウンスが、自分の降りる駅を示した。

 何を思う訳でもなく、私はぐっと寄り掛かった手すりから身体を離して降りる体勢を取る。

 この時間にこの電車で東京駅に向かうのも今日で最後。

『ご乗車ありがとうございました。東京、東京です』

 車掌のアナウンスと共に電車の右側のドアが開く。

 そのドアのすぐ目の前にいた私は、後ろの人たちに押されるまま山手線の電車を降車した。

 揉みくちゃにされた長い髪を手櫛ですっととかし整えながら、人の流れに沿って近くの階段に向かい下りる。

 最後の勤務に向かう足取りは、特に軽いとかそういうのはなく淡々としていた。



 私が今日会社に来た目的は、事務手続きをする為である。

 業務の引き継ぎなどは、昨日までに全て完璧に済ませていたから、仕事でやる事はない。


「それでは、この退職届の記入をお願いします。社員証は最後にこちらで預かりますね」

「はい」

 私の正面に座る人事担当の女性が、会社書式の退職届をこちらに差し出す。私はそれ手に取り、ボールペンで退職日から記入項目を書き進めていった。


 所属、営業部第一課。

 退職理由、一身上の都合により。

 そして最後。

 署名欄に「長瀬陽奈乃ながせひなの」と、自分の名前を記入した時。


 ああ、本当に終わるんだ。


 ぼんやりと今までの仕事でのキャリアを思い出して、改めて自分がとても惜しい事をしている自覚をする。

 仕事、楽しかったなあ。

 ほんの一瞬、今退職を取り消したらどうなるんだろうなんて思うが、当然それは妄想の範疇に収まる。

 いやいや、辞める以外の選択肢なんて考えられ無いんだから。

 一瞬の妄想を収束させて、書き上げた退職届を人事へ戻した。

 これで退職の事務手続きは終わったので、後は今首から下げている社員証を返却して全て完了だ。もうこの会社でする事はない。

「確かに退職届を受理しました。今までありがとうございました」

「いいえ、こちらこそお世話になりました」

「あっ、そうだ。皆さんへの挨拶はもう済まされましたか?」

 退職届に不備がないか確認し終えた人事が口を開いた。

 これで社員証を渡してしまうと、もう私はこのオフィスに自由に出入りすることが出来ない為、気遣ってくれているんだろう。

 彼女の言葉の要所要所に、そういった気遣いと優しさが垣間見えるのは話していて心地良かった。

「はい、さっき挨拶は済ませてきました」

 私はニコッと返事をする。

 オフィスの出入り口にほど近いこの会議室に来る前、既にお世話になった社内の人たちにはもれなく一人一人退職の挨拶を済ませてきた。

 私の足元には、みんながくれた餞別のプレゼントがトートバッグいっぱいに入っている。

「そうでしたか、良かったです」

 人事はホッとした表情を浮かべ、それじゃあと席を立った。

 オフィスの出口まで最後のお見送りをしてくれるんだろうと察して、私も席を立ち荷物を手に取った。

 役目を終え、財布と携帯と筆記用具くらいしか入っていないビジネス用のカバンを肩に掛け、空いた手でトートバッグを持つ。


「そういえば、言いたくなければ良いんですが、次のところは決まってるんですか?」

「あ、実は接客業の仕事が決まってて」

「なるほど。人と接するお仕事、向いてそうですもんね」

「私もそう思います」

「長瀬さんなら接客に限らず、どこへ行っても大丈夫だと思いますよ」

「あはは、そうだと良いんですけどねえ」

 会議室からオフィスの出口へ向かう少しの間、雑談感覚で軽く今後の私の就職の話しをした。

 この人事のひともそうだが、会社のみんなが私の次の仕事を応援してくれるのをとても嬉しく感じる。同時にそれが少し後ろめたい。

 つくづく良い会社で働かせてもらっていたんだなと私は再認識した。

「それでは、お気を付けて。長瀬さんさえ良ければ、またみんなで飲みにでも行きましょう」

「ぜひぜひ行きたいです。ありがとうございました」

 人事に頭を下げ、私はオフィスを後にした。

 辞める社員に対して「さよなら」で締めないのは、うちの会社らしいというか。

 東京は人が冷たいとはよく聞くが、この会社の人たちは本当に温かかったなと胸がじんわりした。


 10階からの少し長めのエレベーターを降りて、いよいよ会社のビルを出た時。


 辞めなければ良かったな。


 脳裏に一瞬、後悔が浮かんできてどうしようもない寂しさが心を襲ってきた。

 だが、次の瞬間にはフルフルと頭を振ってそれを無理やり頭の中から掻き消す。

 たった今退職届を書いて来たばかりの癖に何を言っているんだ私は。


 外は昼下がり。東京駅の方向に歩みを進めながら、この雑念を取っ払う何かが欲しくて、徐ろに鞄のポケットからスマートフォンを取り出した。


 慣れた手つきでさっとSNSアプリを開き、とあるアカウントを開く。ここまで5秒。

 そのアカウントの最新の投稿は、30分ほど前。

 その頃は会社にいたので、これを私が見るのは初めてとなる。


『おはよー。舞台「奇神」3日目です!


 本日もよろしくお願いします

 今日もゼウスと一緒に頑張ります!


 まずは昼公演

 さぁさぁ派手に闘うぜ!


 #奇神ステ』


 改行が多めの投稿をスクロールすると、下にはゼウス役に扮した私の推しの自撮り写真がくっ付いていた。

 それが視界に入った瞬間、まるでそういう回路でも出来ているかのように、胸の奥から全身へぶわっと熱が伝った。

「わあ、わあ、かっこいい…!今日のしゅんくん、ビジュ良すぎる!好きい!」

 ほぼ条件反射で口から黄色い声が止めどなく溢れそうになるのを、手で口許を覆うことで何とか制した。

 こんな周囲に人が大勢いる中で、歩きスマホしながら「好き好き」と大声を出す女性は変質者でしかない。

 さすがにその理性は飛ばずにある。

 だが、さっきの会社を辞めたことに対する後悔の念は、もうどこかに吹き飛んで消えていた。


 自撮り画像は長押しして保存し、お気に入りの写真フォルダ『春くん』にすぐ振り分ける。

 そして、既に1万ほどのいいね数が付いているこの投稿に、自分もハートを重ねた。

 いつも出来るだけ早く、すぐに彼の投稿に反応しないと私は気が済まない。

 コメントボタンを押した私は、今度は一旦歩きスマホをやめて道の端に寄り立ち止まった。

 肩に掛けた鞄と、手に握られたトートバッグが邪魔に感じて、一旦ふたつとも地面に置く。

 彼が見るかもしれない文章をこれから打つのに、僅かでも妨げになる物はどけておきたいのだ。


『春くんこんにちは

 お写真ありがとうございます。

 わあ、今日のゼウス様もすごくかっこよくて美しい…!

 夜公演行くのでとても楽しみにしています。

 今日も素敵な公演になりますように!』


 考えて考えて入力した文章。

 早る気持ちで送信ボタンを押す手前で留まり、見返した。

 読み手の気持ちになって、くどい文章になっていないか、オタク過ぎて気持ち悪い文章になっていないかなど、頭の中のチェック項目とどんどん照らし合わせていく。

 よし、この返信内容で正解だ。送信。

 きっとこれを読んだ春くんは、ファンから温かいメッセージが届いたと思うはずと、私は自分に合格判定を出した。


 さてと。

 私はスマートフォンを服のポケットにしまい、地面に置いてある鞄とトートバッグを再び持ち直した。

 そして再び人の流れに戻って歩みを進める。


 今日はこの後大忙しである。

 一度家に帰り、夜観に行く舞台の観劇の準備をしなければならないからだ。

 ヘアメイクの予約は15時。

 それまでの移動時間や昼ごはんも食べるとなると結構ギリギリの時間だ。

 正直、このバタバタ具合はいつも面倒くさく感じる。

 でも彼の為ならと思うと全然苦ではない。

 駅に向かう私の足取りは軽く、浮き足立っていた。


 私の中で「勇翔春ゆうがしゅん」という舞台俳優の存在はとても大きい。

 どれほど大きいかと言うと、彼の為に好きだった会社を辞めてしまったくらいには。

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