第24話 あなたが心から笑える日まで②
翌日、エルは学校へ行った。教室には複雑な表情の教師が待っていたが、エルは自習を申し出て、ひとり裏庭へと向かった。
エルは芝生に座り待った。朝から午後の鐘の鳴るまで待ったが、誰も来なかった。
高い植え込みと鉄の柵を見上げた。
あの日、何故ロウエルガは、わざわざこの柵を飛び越えたのか。それをずっと考えていて、ようやく気づいたことがある。
ロウエルガ・レシオは王太子を諫めた。その内容については誰もエルの前で言及しなかったが、逆にエルが何かを尋ねられることもなかった。それは、ロウエルガとエルの接触を誰も知らないから。ロウエルガはエルとの接触を秘密にするため、誰にも見られないよう、あんな現れ方をしたのではないか。ルヴィに飲み物を買いに行かせたときも、自分の分はいいからと言っていた。秘密にしたのは、エルが諫める者と接触したことを王太子に知られないようにするためではないか。諫言が失敗したそのときも、エルを守るために。
今ではもう、それはすべてエルの想像でしかなかった。
午後の鐘が鳴り終わった。教室に戻らなければ。
だが、エルは立ち上がり植え込みの前に立った。分厚い植え込みの向こう側は密集した枝葉によって見通せない。高さは優に大人の背丈を超える。エルに飛び越せる高さではない。
エルは植え込みに手を突っ込んだ。細かく詰まった小枝が思っていたよりも堅く、容易には手が入らない。それでもかまわずに強引に掻き分けた。細かい枝が手や腕を傷つけても無理やり押し込み、肩まで入ったところで鉄の柵の縦棒に当たった。縦棒の隙間は植え込みの木の幹に邪魔をされて、通り抜けられそうにない。
エルは手を抜いて植え込みを見上げた。思っていたより堅いなら体重を支えられるかもしれない。今度は植え込みに足を突っ込んで無理やり足がかりにし、細かい枝葉を強引に掴んで体を浮かせた。バキバキと嫌な音を立てて枝が折れる度、素手の手のひらも薄いタイツを履いた脛にも枝の刺さる痛みを感じたけれど、気にしなかった。服の端が引っかかり穴が開くのも布地が裂けるのも気にしなかった。
何度も足が枝を踏み抜き、掴んだ枝も折れバランスを崩したけれど、エルはやめなかった。植え込みの木はなんとかエルの体重に耐えて、遂にエルは傷だらけの手で鉄の柵の一番上の横棒を掴んだ。なりふり構わず、その掴んだ横棒を頼りに強引に体を引き上げる。
そこに足を引っかけられれば、きっと向こう側へ行ける。その一心がエルを突き動かす。
上半身が植え込みの上に出る。鉤状に尖った縦棒の先端が並ぶ、その間の横棒に膝をかけられればいい。スカートの裾が枝にひっかかり裂け、太腿まで露わになっても構わずに足をかけた。
登り切った。
初めて見る光景が眼下にあった。
解放感も爽快感も、思ったほどには湧いてこない。
街の裏路地。音を聞くことはできても、見ることのできなかった世界。
あの日、ロウエルガが去っていった世界。
エルには決して行けないと思っていた世界。
なんだ、こんな簡単なことだったのだわ
なりふり構わず、些細な傷も厭わず、一心に体を動かしさえすればよかっただけ。
棄てられるのを待つのではなく、自分から棄ててしまえばよかっただけ。
行けばよかった。もっと早く、行けばよかった。
ルヴィを失ってしまう前に、行ってしまえばよかった
路地の側に飛び降りようと体を乗り出したとき、スカートの端が引っかかった。それを構わずに思いきり引っ張ったら、勢い余ってバランスを崩した。
落ちる
ぐらりと天地が逆転し落ちていくそのとき、目の端に何かが映った。それはとても見慣れたもので、エルの胸のわずかな達成感をいとも簡単に否定した。
落下の際エルの見たものは、見慣れた王宮の侍女の制服だった。
次に目の覚めたとき、エルは自室のベッドにいた。四肢の酷い擦過傷には包帯が巻かれ丁寧に治療されていたが、その傷が原因の発熱はそれからしばらく続いた。高い柵から落ちたはずなのに、他には怪我らしい怪我はなかった。
エルにはまた、日常が待っていたが、それは今までとは少々違っていた。
王太子ルヴェリオネ・ファタは「暴虐の王子」となって急速にその人気を失い、姿を消したという母は身分を放棄したとみなされ王妃ではなくなった。王位継承権が与えられたとはいえ、そんな二人の血縁者であるエルの立場は、やはりあまりよくはないらしい。
宰相は混乱した王政を立て直そうと奔走し、その中には新しい王妃を迎え入れる準備も含まれているようだ―――そんな噂が耳に入るくらいには、側仕えの者たちはエルの周りで口をきくようになった。もちろんそれは、エルとの会話の中に出てきた話ではなく、『本当に俺の子か?』などと言われた王女を見限って、新たに迎えられる王妃へ仕えるにはどうしたらよいか、いま一番有力な王妃候補は誰か、といった噂話がエルに聞こえてくるだけのことだ。
諫める者ヤト家の三姉弟の『いるはずのない四番目』の末っ子は、いつの間にか『いたはずの四番目』になって、その消息は誰からも聞こえてこなかった。
王宮から学校に通い一人の授業を受けることは許されても、エルにはもう交流できる相手は残されていなかった。
「ロウ様………きっと、そんな日は、もう二度とありませんわ」
15回目の誕生日を迎えた日、王立学校の教室の窓から、ひとり、女神の祝祭日の火の入る前のランタンを眺めながら、エルはそう呟いた。
偽りの英雄王の末裔 珠福 @tamafuku
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