第21話 諫める者③

 ちりちりと気に障る音が、しんと静まり返った中に微かに漂った。

 それが自分の捧げ持つショールの飾りの震える音だとは、マグダは結局気づきもしなかった。ただ、気に障ると思ったのだ。灼けるような緊張の中で。


「英雄王ファリスの剣は……」


 優雅な調子を取り戻し、今度は聞こえるように主が言うのをロウエルガは穏やかに遮った。


「俺が何を尋ねたのか、理解しているから誤魔化すのだろう?」


 背後にいるマグダに主の表情は見えない。だが、はっきりと感じる。

 ―――今の言葉は『不快』だ。


「ロウ殿らしくもない。些末な言の葉の末尾を賢しらにあげつらうとは」


 ひどく丁寧に言いながら、主はロウエルガに体を向けた。それは実にゆっくりとした動きで、他に動いたものは無く風も無いというのにランプの中の灯火が揺れた。一つではない。宝物殿の中を照らす、目に映る灯火のすべてが一斉に。


「言葉のあやです。どうかご寛恕を」


 主の声を乗せた甘やかな空気がマグダに耐え難い歓喜を運んだ。寛恕とは! 至高の身でありながら、そのような言葉を自らの舌に乗せるとはなんという尊き謙遜! 鼓動が身動ぎもできないマグダの中で激しく躍り出す。自分にかけられた言葉でもないのに、マグダは溢れ出る至福の渦の中で溺れそうになりながら必死に自分を保った。そして信じた。主の前に、同じ歓喜を胸に抱いて平伏すロウエルガの姿を。

 だが、この歓喜の最中にあって、嫌に冷ややかな声がそのうねりの邪魔をした。


「蠱惑か? 下衆な術で俺を試すな、ルーヴェ。小手調べをしている余裕があると思うなよ」


 その刹那。

 無造作に垂らしていた主の左手に灼熱の螺旋が絡みついたのまでは見ることができたが、マグダはそのまま弾き飛ばされ意識を失った。

 螺旋は王太子の左手の動きよりもはやく灼熱のまま真っ直ぐな炎の線となって奔った。的確にロウエルガの額を狙う。その細く鋭い先端が防御したロウエルガの腕に突き刺さるが、それは硬質な音を立てて弾かれた。旅装の下に仕込んだ手甲が白い光を散らす。だが、重い衝撃は伝わり、逆らわずに跳んだロウエルガの身体を壁際まで吹き飛ばした。

 着地を狙い鞭のようにしなる炎が襲い掛かる。剣の柄に手をかけたものの抜かずに横に跳んだ。炎はさらに枝分かれし追撃する。石柱の陰に入り躱したが、炎の鞭に抉られた柱の破片が頬をかすめた。頭上でランプの灯火が膨れ上がり爆ぜ、わずかに遅れて衝撃波が建物全体をずんと震わせた。


「おいおい、いきなり随分と派手な技を使ってくれるじゃないか」


 衝撃波をやり過ごし柱の陰から窺うと王太子はまったく位置を変えずに立っていた。その周りを左手から伸びる灼熱の螺旋が炎の渦となって取り囲み、黄金の髪が熱に煽られ浮き上がっている。炎に照らされ紅く染まりながらも、まったくいつもと変わらない取り澄ました美貌なのが不気味だ。

 うねりながら枝分かれした炎の鞭は生き物のように宙をゆらゆらと漂い、柱に隠れたロウエルガを待ち受けている。それが途切れ途切れに揺れているのを見逃さなかった。派手な技なだけに不安定さが覗く。


「大抵の者は、これを見せるまでもなく従うのですが………一撃で決着できなかった技量不足は認めます。そういえば、あなたは僅かながら防御の『魔法』を使うのでしたね。何分、王都では鍛錬の相手もおらず、対『魔法』の戦いには疎いのです」


「急に饒舌じゃないか、言い訳がましいぞ。鍛錬したけりゃ辺境にでも行け。『魔法』ってのはな、ヒトに対して使っていい力じゃないんだよ」


「そうでしょうか?」


 王太子の端正な顔が僅かに歪み、口角を優美に吊り上げた。


「下々を罰して従えるのに、これ以上慈悲深く完璧な力は無いでしょう」


「馬鹿か、お前は」


 床に散らばった柱の破片を拾い一番近くを漂っていた炎の鞭に向かって投げた。炎をすり抜けた破片はランプを床に落としたが、炎の鞭には何の効果もない。

 直接的な侮辱にも王太子は目に見える反応を示さなかった。だが、炎の鞭が、また僅かに揺れる。ロウエルガは左手を剣にかけ右手はだらりと垂らしたまま柱の陰から出た。


「お前がほいほい使ってるその蠱惑の術は、ヒトを従えているんじゃない。操っているだけだ」


 間合いを意識しながらゆっくりと距離を詰める。姿を見せたロウエルガを炎の鞭がいきなり襲うことはなかった。話を聞く気はあるのか、あるいは時間稼ぎか。『魔法』は力の消耗が激しく、通常は連続して何度も使えるものではない。


「罰するのに『魔法』? 剣で刺せば死ぬような生き物に、わざわざ使う必要あるか?」


 ロウエルガのブーツがジャリっと砂を踏んだ。先ほど落ちて割れたランプから零れた黒砂だ。ロウエルガは足を止めた。


「そういう馬鹿なことを言い出す奴のために、諫める者俺たちがいるんだよ。何を企んでいようとも、お前の悪事なんざ、どうせクソくだらない理由だろう。聞いてやるから洗いざらい白状して悔い改めろ」


「………二度までもこの私に『馬鹿』などと…」


 王太子の髪が炎と共に躍った。漂っていた炎の鞭が唸りを上げ一斉に四方からロウエルガを襲う。同時にロウエルガが蹴り上げた黒砂が虚空に舞い閃光を放った。その閃光は炎の鞭を悉く跳ね返し、一瞬、王太子ルヴェリオネ・ファタの目を眩ませた。それは一瞬に過ぎない。だが、一気に間合いを詰め王太子に迫ったロウエルガの右手が、王太子の左手首を灼熱の螺旋ごと掴むのには十分な隙だった。

 じゅっと灼けつく音がして、苦痛の声を漏らしたのは王太子だった。


「ぐぅぅ……ッッ」


 微笑が崩れた。

 掴まれた腕を咄嗟に振り解こうと身を逸らすが、ロウエルガのブーツが王太子の足の甲を踏みつけ逃がさなかった。空いている右手がロウエルガの身体を押しのけても、びくともしない。ロウエルガが掴んだ指の隙間から漏れる炎は急速に勢いを失い吸い込まれるように消えて行く。ぱらぱらと乾いた音を立てて黒砂が床に落ちた。


「『魔法』ってのはな、のとのは違うんだよ」


 なおも身を捩る王太子を逃がさぬまま、ロウエルガが続けた。


「『魔法』を使う者は、理由は知らなくても薄々気づいているもんだ。黒砂が『魔法』の力を増幅するってことをな。俺の防御の術が、お前の炎を弾いたのはそんなわけだ」


「下賤の浅知恵など知るものか。 そんな穢れたものに頼らずとも私の『魔法』は強い!」


「ああ、そうだな、ルーヴェ」


 ロウエルガがすっと目を細めた。


「お前の『魔法』は強過ぎる」


「手を離せ……っ」


「諦めろ。俺の右手に仕込んだ封魔の術が成れば、お前はもう『魔法』を使えない」


 ロウエルガの手袋をはめた右手から、炎ではなく青白い光が漏れ始めた。


「戯言をッ! 穢れた砂で力を増そうとも、貴様如きが私を抑えられるものか!!」


「それができるんだよ。お前、その強すぎる『魔法』はどうやって手に入れた?」


「………なに?」


 ふと、王太子が何かに気づき目を見開いた。彼らしくも無く呆けたように口が開き、ほんの数瞬、眼前に迫るロウエルガの瞳を眺めた。そして不意に、口だけを笑みの形に歪めて奇妙に笑いだした。


「ふっ、は、ははははは………っそうか! ははは…………諫める者ですら……!」


 突然の哄笑にも怯まず、ロウエルガは王太子の拘束を解かなかった。

 王太子が声を止め、思い出したようにいつもの微笑を取り戻したとき、ロウエルガの右上腕を激痛が貫いた。

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