第20話 諫める者②

 しばらく歩くと、湖から引き入れた涼やかな小川のほとりに出た。飛び越せそうなほど幅は狭いが石造りの橋が架けられ、その先の小径は緩やかな傾斜を上り、厳かな神殿風の建物へと続いている。おとぎ話のような風景だ。傍らの木陰で、せせらぎを楽しみながら、少し強い午後の日差しを避けて休むのには丁度よい。

 二人が立ち止まったところでマグダは音もなく近寄り、主の背後でショールに手が伸びるのを待った。だが、ふとシスカティア・サマヨルが何かに気づき建物に目を向けた。


「誰かしら?」


 庭園の中でも、自然の地形を残した小高い場所に完成したばかりのその建物は、今はただ宝物殿と呼ばれている。英雄王ファリスのものと伝わる遺物を納め、その功績を称え祀る神殿として造られたが、たとえ開国の祖であっても神格化には古い神々の神官からの断固とした反対があり、列柱が美しい神殿の造りのまま規模も縮小して、宝物殿という名称で落ち着いたという曰くつきだ。いずれ、救世の女神ホノの祝福を受け神殿になるだろうというのが大方の見方だった。

 その入口の柱の陰から誰かが姿を現した。明らかにこちらを見ている。


「嫌だわ、叱られそう」


 上品に口元を隠してクスリと笑い、シスカティア・サマヨルはふわりと踵を返した。


「ごきげんよう、王太子殿下。私、退散いたしますわ」


 そう言うと、いたずらが見つかった子供のようにクスクスと笑いながら、王太子の言葉も待たずに艶やかな衣擦れの音を残して去って行った。公爵令嬢とはいえ随分と不遜だが、その彼女の奔放さまでもが魅力なのか、主は苦笑を浮かべ、その後姿を黙って見送った。

 令嬢の姿がすっかり見えなくなってから、主は宝物殿に目を向けた。

 柱に寄りかかり腕組みまでしてこちらを見下ろしているのは、丈の短い黒いマントを纏った旅装の男だ。遠目にも、こちらが王太子であることは気づいているはずだ。それを無遠慮に眺めている豪胆さが不快だ。が、マグダの胸にはじわりと嫌な予感も沁み込んできた。

 最も高貴である王太子に、そんな態度をとれる者。嫌な汗が浮いてくる。

 主は少しも優美さを崩さぬまま橋を渡り、宝物殿へと続く小径を上がって行った。マグダも主からの『来なくてよい』という空気が少しも感じられないのを十分に見極めてから、遅れて従った。後に従いながら、その旅装の男が誰であるのかを必死に考えた。その態度から三家であることは間違いない。令嬢の見知った相手のようだが、まさか。


「これは、ロウ殿」


 主の言葉にマグダの緊張は跳ね上がった。諫家当主の弟ロウエルガ・レシオ。諸国を巡る任に就く剣士。見ると、王宮の庭園だというのにマントの下には剣を帯び、剣を揮うであろう右手には手袋をはめている。衛兵でもないのに王宮での帯剣が許されるのは諫家だけだ。


「やるじゃないか、ルーヴェ。あれは公爵家のご令嬢だな」


 姿勢も正さずに声をかけてくる気安さに不快感が増すが、それ以上に恐怖がマグダの全身を粟立たせ這いまわる。諫める者だ。マグダが王太子に仕えてから4年、初めて間近に聞く諫める者ヤト家の声だ。


「戻られたのですね。諸国の様子はいかがでしたか? 土産話が楽しみです」


 ロウエルガの態度も言葉も意に介さず応じた王太子の様子は、マグダの恐怖を他所に、いつもと変わらぬ優雅なものだった。


「卒の無い社交辞令だな。俺の姪っ子を泣かせるような真似をしているくせに、言い訳もなしか」


「バーニは泣いたりしない」


 ふふっと愉快そうに、主が頬を緩めたのは意外だった。あの許嫁の名を出すのも珍しい。


「うん、確かにな」


 頷いたロウエルガも、あの娘の気性はよく分かっているのだろう。芝居じみた仕草で、腕を組んだまま思案気に目を閉じる。だが、その目を開けたときには、真正面からはっきりと笑みも浮かべずに言った。


「だからバーニが泣くときは、ヤト家が本気になるときだ」


 しん、と空気が鋭く研ぎ澄まされた。


「心得ました」


 しばらく後に、なおも微笑みを崩さぬままの主が答えるまで、跪いたマグダは全身が凍り付いたように動けなかった。

 ロウエルガは、ふと気を緩め、ようやく柱から身を離すと宝物殿の中へと入って行った。主もそれに続く。マグダは躊躇ったものの、やはり『来なくてよい』という空気を読み取ることはできず、従うしかなかった。気持ちは既に逃げ出している。

 諫める者ヤト家が、王太子が婚約者ではない令嬢と庭園を散策したくらいで声を掛けるはずがない。

 宝物殿の中は厳かな外観とはいくらか趣が異なり、金の組紐で縁取られ錦糸をふんだんに使った紋章入りのタペストリーが壁を飾り、金とガラスで作られた黒砂のランプがいくつも架けられ、納められた品々を煌々と照らしていた。中央の一番目立つ台座には英雄王ファリスが始原の岩山で『邪悪なるものの門』を封じた際に装備したと伝わる大きな盾と鎧が、きれいに手入れされ展示されている。その背面の壁に掛けられているのは、それらを装備した堂々たる英雄王ファリスの肖像画だ。宝物殿の建造にあたって描かれたそれは、今まさに荒野に突き立てようと剣を掲げた建国神話の重要な場面だ。英雄王ファリスにも、その剣にも、外見に関する伝承はほとんどなく想像に過ぎないが、波打つ黄金の髪が美しいその容貌が現国王と王太子に似せてあるのは一目瞭然だった。英雄王ファリスを称え祀ると言いながら、王家の神格化を隠しもしない露骨さだ。歴代王家の中でも別格の神聖なる英雄王ファリスをそんな風に描いた画家は、王妃に侍る何人目かの愛人らしい。

 その英雄王ファリスの装備の前で、ロウエルガ・レシオは歩みを止めた。


「俺が諸国漫遊している間に、随分と無粋なものを描かせたじゃないか」


「これは耳が痛い」


「俺の兄貴も同じこと言ったろ?」


「さて……母上には聞かせられませんが、宰相殿なら同じことを言ったかもしれません」


「はははは、あの二人また喧嘩だな。随分派手な剣を掲げているが、英雄王ファリスの剣がどんなものか、記録でも見つかったのか?」


「いいえ。この盾と鎧に合わせただけでしょう。過剰に華美なのは、そのせいだ。実に馬鹿馬鹿しい…………」


 どこか苛立たし気に、その後に続けた呟きは、ロウエルガに答えたというよりも英雄王ファリスの肖像画を見上げているうちに思わず零してしまったようだった。注意深く聞かなければ聞き取れないほど小さなものだ。常の主らしくないとマグダの神経を嫌に刺激し、そして何故かロウエルガの軽口も止めた。

 主は呟いたのだ。ごく小さく、口の中でだけ。だが確かに。


――――どうせ偽物だと言うのに


 そして、しばらくの沈黙の後にロウエルガが尋ねた。彼はその、ごく小さな呟きを聞き逃してはいなかった。


「なぁルーヴェ………何故お前が?」

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