第15話 王女の憂鬱②

 小さなルヴィの叔父と言えば、諫家の現当主ハイエルガ・レシオの弟、ロウエルガ・レシオのはずだ。諫家は領地を持たず王家と共に王都に暮らすが、当主以外の兄弟には、世界中を巡り見聞したことを王家に伝えるという役目があると聞いたことがある。ロウエルガ・レシオも常に旅をしているようで、エルはその名前すらも、ようやく思い出すほどにしか覚えがない。


「いろいろな国を旅していらっしゃるのでしょう?」


 エルは何気なく口にした自分の言葉に、ふと胸がざわめいた。いろいろな国。ここではない場所。


「そうみたい。お菓子買ってくれた」


 ルヴィは自分は直に芝生に座り、持っていた包みを開けエルに薦めた。バターと蜂蜜の甘い香りがふわりと漂う。こんなところを王宮の侍女に見つかったら、ルヴィもきっと叩かれてしまう。それでも二人で『裏庭ではお行儀悪く振る舞う』と約束したから、エルはいつもの癖で少し躊躇ってしまったものの、紙に包まれていた焼き菓子に手を伸ばした。まだ、ほんのり温かい。そのまま、ぱくりと齧る。


「おいしい」


 お行儀の悪いことをするのは楽しい。特別クラスのときは、ソラとイルレニエも一緒に先生の目を盗んでは、よく秘密の冒険をした。四人で過ごす時間は、息苦しく恐ろしい王宮の暮らしを束の間でも忘れさせてくれる大事なもの、エルの生きる拠り所と言っても大袈裟ではなかった。

 今はその大切な時間を小さなルヴィが細々と繋いでくれている。エルは口の中に広がるやさしい甘さに、滲んでくる涙を瞬きで誤魔化した。

 そこでふと気が付いた。お菓子を買ってくれたの?


「ルヴィ、今日は叔父様と一緒に学校へ来たの?」


「違うよ。叔父上は昨日遅く帰ってきて朝にはもう出掛けてたから。さっき、お祭りの屋台に寄ったときに会ったんだ。あ、そうだ、エルに会いたいんだって。 ここへ呼んでもいい?」


「……え…」


 エルの胸が不安にざわついた。さぁっと血の気が引いていくのが自分でもわかる。指が強張った。エルの様子に気づいたルヴィは、頬張っていた焼き菓子をごくんと飲み込んでから口を開いた。


「エル、大丈夫。なにも怖くない」


 怖くない? でも………『大人』がエルに関心を示す時は、いつだって怖いことが起こる。


「僕がここにいる」


 ルヴィの手が、膝の上のエルの手を握る。その小さくても温かい手は、いつも不思議とエルの気持ちを落ち着かせた。顔を上げると、真っ直ぐにエルを見つめる琥珀色の瞳があった。エルよりもずっと小さいのに、いつでもエルを護ってくれる優しく強い光の宿る瞳。

 ルヴィの手を両手で握り返し、小さく頷いた。ルヴィの瞳に映る自分が怯えた姿でなければいいと思った。


 その時、頭の上でバサッと音がした。驚いて顔を向けると、大きな黒い翼が舞い降りてきた。それはとても大きいのに、とても静かに芝生の上に降り立った。翼と思ったのは纏っていたマントだ。一人の男が芝生に座るエルの前に跪いていた。


「失礼、ルル・エルクルイラ殿下」


 穏やかな低い声がそう言い、伏せていた顔をゆっくりと上げた。少し癖のある淡い栗色の髪に琥珀色の瞳。陽に灼けた顔と無精髭が精悍さを感じさせたが、粗野な動きではなかった。


「叔父上ッ!!」


 いつでも自分が一番突飛なことをするがためにヒトのやることにはあまり動じないルヴィが、珍しく驚いたように声を上げた。


「エルがびっくりしてる! いいって言ったらねって言ったのに、呼ぶまで待っててよ! どこから来たの!? もっと普通に来て!」


 こんな風に現れる段取りではなかったらしい。


「ああ、悪い悪い。頷いてくれたから、すぐに参上しなくっちゃってな。回り道面倒で、ちょぉーっと柵を飛び越えてみた」


 あの高い柵を飛び越えた? 二人のやり取りに驚いて固まっていると、男が改めてエルを見た。思わずびくっと肩が竦んだ。


「ルル殿下、はじめまして。諫家当主の弟ロウエルガ・レシオ、ルヴィの叔父です」


 言われてみれば、その容貌は、いつか王宮で見かけたことのあるルヴィたちヤト家三姉弟さんきょうだい――実際には四人だが――の父親ハイエルガ・レシオによく似ていた。

 三家の現当主の弟であれば、身分は王太子の妹であるエルとはさほど変わらないが、王宮の外とは言え随分と気さくに掛けられた声に、手を握るルヴィに勇気をもらい、エルは怖々とだが応じた。


「ご……ごきげんよう、ロウ様……」


 そう呼んでいいのか分からなかったが、ルヴィの父はいつも『ハイ様』と呼ばれていて、それに倣った。諫家には爵位や官職が無く、名前以外の呼び方を知らない。


「ルル殿下、裏庭へのお招きありがとうございます。ここでは、お行儀悪くするんでしょう? じゃあ、失礼して」


 ロウエルガは、そう言いながら芝生の上に胡坐をかいた。エルの前でそんな風に振る舞う大人はいない。二人の秘密を知っていることにも困惑してルヴィを見ると、ルヴィは「叔父上はが上手いんだ。姉上よりもずっと」と口を尖らせた。


「俺の口は堅いぞぉ、バーニには黙っててやるから安心しろ」


「父上にも兄上たちにもだ。他のみんなも全部ダメ」


「わかった、わかった。じゃあ、俺たち三人だけの秘密な」


 ロウエルガがそう言って笑った。気持ちよく笑う大人だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る