第16話 王女の憂鬱③

「そうだルヴィ、せっかくだからそこで飲み物を買っておいで。ほらあの、お前の好きな甘いやつ、屋台が出ていたぞ」


「いいの?」


 ルヴィがぴょこんと伸びあがった。ルヴィが好きなもの? 苺の入ったミルクのことかしら。と、思いついたところで、ロウエルガと目が合った。


「ルル殿下も飲みたいって。後で瓶を返しに行くと言えば、持たせてくれるだろう」


「………いえ、私は……」


 はしたなくおねだりしてしまったようで、恥ずかしさで頬が熱くなった。口ごもったエルの声は小さく、ルヴィには聞こえなかったようだ。


「叔父上は何がいい?」


「俺はビー……ああ、いや、俺はいいから二人の分を買っておいで」


「わかった、行ってくる!」


 硬貨を受け取るとルヴィは裏門の方へ駆けて行ってしまった。初対面の大人と急に二人きりにされ、エルは戸惑った。ルヴィ、ここにいてくれるのではなかったの? と、心細くなり俯いた。ロウエルガが穏やかに言った。


「ルル殿下、申し訳ないが少々急いでいる。ルヴィのいないところで、少し話をお聞かせください」


 口調も雰囲気もやわらかいが、有無を言わせぬ厳しさがある。エルは、膝の上で固く手を握った。怖い―――逃げ出したかったけれど、ルヴィの言葉を信じた。


「はい………ロウ様、何をお尋ねでしょう」


「2年前、火事のあった日に図書館にいましたね?」


「……はい」


「あの日、兄上を、王太子殿下を図書館で見かけましたか?」


 心臓が跳ねた。

 怖い。息が苦しい。堪えようとしたのに肩が震えた。何故、そんなことを聞かれるのか。その質問に答えられるはずがない。兄はあの日、のだから。

 エルの様子を見て、ロウエルガが静かに続けた。


「あの火事は事故として扱われたが、ただの火事ではない。強力な結界に守られていたはずの3階の読書室まで焼け落ちてしまった。あそこには結界が張られていて延焼しないことは、実は図書館の多くの職員が知っていました。だから2階より上の階で逃げ遅れた者は、あの読書室を目指してしまったのです。ところが、読書室には既に火の手が回っていた。多くがそこで命を落としたのは、そのためです。最も酷く焼けていたのは、2階の収蔵庫と3階の読書室でした」


 あの日のことを思い出し、エルはきつく目を閉じた。

 今まで誰にも質問されなかったがために、自分の中のずっと奥に押し込めた記憶。なかったことにしたかった記憶。どうしてあの日、大人しく教室に残らなかったのだろう。ほんの少しの冒険のはずだったのに。ほんの少しだけ、本当に少しだけだったはずなのに―――




 あの日、特別クラスの授業は鐘の鳴る前に終わり、ソラとイルレニエは街に遊びに行くと言って、すぐに教室を出て行ってしまった。救世の女神ホノの生誕祭の翌日に出る露店は店仕舞いの前で、最後にいろいろおまけをしてくれると言っていた。

 二人はエルよりも年長で、男の子で、王家ではないために制約も少ない。それがとても羨ましかった。エルよりも4つ年下の小さなルヴィは、その日は難しい科目だったせいか授業には出ていなかった。

 侍女はいつも鐘が鳴ってからエルを迎えにくる。鐘の鳴るまで、まだ少し時間があった。思いがけずできた一人きりの時間にエルも何かをしたくなり、前に四人で館内を探検したときに見つけた、回廊に囲まれた美しい中庭に行ってみようと思った。回廊の階段から庭に下りると小さな噴水があり、そこで、前に行ったときにはできなかった、花びらを浮かべる占いをしてみたかった。

 記憶を頼りに足音を忍ばせて廊下を進み、迷いもせずに回廊に出られたときは、小さな冒険を成し遂げた達成感で胸がいっぱいになった。

 でも、そんな気持ちは一瞬で消えた。回廊をぐるりと一周し、向かい側の階段から下りようと考えてすぐに、背後にヒトの気配を感じた。叱られる! 咄嗟にそう思って慌てて振り向くと、そこには全く予想もしていなかったヒトが立っていた。

 兄、王太子ルヴェリオネ・ファタだ。

 状況が分からずに、呆然と見上げてしまった。王宮の大切な行事以外で会うことなど滅多にない。あまりに驚いてしまい、エルは伸びる兄の手に反応するのが遅れてしまった。頭を下げなければいけなかったのに。

 兄の優美な手が、エルの髪に差し込まれた。さらりとした柔らかい髪を梳くように。だが、それはすぐに乱暴に髪を掴む力に変わり、思いきり引き上げられた。


「きゃ……っ」


 容赦のない力に体がよろけ、痛みで思わず声が漏れてしまった。慌てて両手で口を押える。でも、もう遅い。声を立ててしまった。恐怖が、頭の考えるより速くエルの全身を支配し硬直させた。


「誰が声を出していいと言った?」


 痛い 怖い やめて ごめんなさいごめんなさいごめんなさい―――


 すべての感情も言葉も必死に吞み込んだ。兄の前では震えることすら赦されない。何をしても何を言っても、決して赦されない。

 こんなことをしていても兄は、とても優雅に微笑みを浮かべている。そして、とても優しい声を出す。エルがこんな風にされても、どんなに痛くても苦しくても恐ろしくても、いつも王太子殿下は微笑んで、まわりの大人を取り込んでしまう。


「こんな所に湧いて出るなんて、お前は本当に使えない」


 ぞっとするほど優しい声。これは、酷く怒っている時の声だ。


「使えないものは、いっそ燃やしてしまおうか」

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