第12話 君に好きだと言えばよかった①
王太子を読書室へと案内しながら、トゥエリクは初めて味わう奇妙な感覚に当惑していた。じんじんとこめかみの辺りが熱い。頭痛とも眩暈とも違うが、頭が重く五感が鈍り、ふと気を緩めると頭の中に奇妙な声が飛び込んでくる。
知識では、これが何かを知っているような気がするのに、記憶を辿ろうとすると何かが邪魔をする。作為的な何かが。――ふと、後ろを歩く王太子の高らかな靴音に気を取られるた途端、意思に反して痛いくらいに胸が躍った。規則正しく繰り出される靴音までが優美で神々しい!
振り向いてその足に縋りつきたい欲求が急激に湧き上がり我を忘れそうになる。と、また左手首に灼ける微かな痛み。その痛みに意識を集中し、飾り紐を買い求めたときの老婆の言葉を思い出そうとした。
かろうじて自我を保ちながら、なんとか3階の読書室へと着いた。ドアを開け一歩中に入ると、ふわりと空気が変わった。覆っていた膜が破れたかのように感覚が戻り、不自然な欲求の不自然さが、はっきりと自覚できる。奇妙な声も聞こえない。
―――やはり。
振り返る前に、トゥエリクは悟られぬよう強く目を閉じて気を落ち着かせた。これは、『魔法』だ。そして、露店で買い求めた飾り紐の『まじない』がどんな効果を発揮したものか、ぎりぎりのところで護ってくれたのではないか。
館長就任の際、稀覯書の収蔵庫でもある三家専用の読書室には、創建当初から強力な魔法の結界が張られていると聞かされた。噂に聞いた結界が本当にあったことには驚いた。貴重な書物を災害から守るためという名目だが、そこが三家の読書室も兼ねていることには当然、それだけではない意味がある。外からの影響を受けないだけでなく、この部屋の中では結界よりも弱い力の魔法は発動しない。嘘か本当かは知らないが、結界を張った神官の力が強すぎて、今ではそれを解くこともできないらしい。
王太子ルヴェリオネ・ファタが意図して使っているのか不可抗力か、あるいは王太子自身も気づいていないのか、どんな理由であれ、この部屋に入れば大概の『奇妙な術』は解けるはず、という読みが当たった。
トゥエリクはゆっくりと振り返り、ドアを抑え王太子を室内に招き入れた。
「どうぞ」
王太子は、ふと間を置いたが、それも一瞬で、微笑みを浮かべたまま優雅な仕草で歩を進めた。ドアを閉める前に廊下を確かめたが、控えていたはずの従僕はいつの間にかいなくなっている。ならばやはり、あの奇妙な術は王太子の『魔法』だろうか。だが、それをかけられる理由が分からない。
王太子はトゥエリクに背中を向け、後ろで手を組んだまま部屋の奥まで進み、ずらりと並んだ本棚の前に立った。緩く波打つ長い豪奢な金の髪がふわりと揺れる。
「あの書物は、とても古いものだと言いましたね、先生?」
「はい、殿下。いま、ご用意しましょう」
実際に、王太子の気にかけている本は、この部屋にある。どこに収蔵したかも覚えているが、トゥエリクは躊躇った。何故、躊躇うのか。
トゥエリクは読んだのだ、その本を。解読が難しく……などと誤魔化したのは、その内容を知っているからだ。咄嗟に誤魔化したのは、妙な術にかかってもなお、その内容を知っていることを王太子に知られたくなかったからじゃないのか。
王太子に言われるまで古い本の存在をすっかり忘れていたのは、悪筆な上に奇抜な内容で突拍子もなく、書かれた目的もよくわからない不出来な創作のようで、学者として興味をそそられるものではなかったからだ。だが、王太子が今さら気にかけるというなら、そこには無視できない意味があるのではないか。
その本の内容と共に、思い出されたもう一つの記憶。古い本を見つけたと持って来たときに、何故か唐突に王太子からされた質問。唐突だと思ってしまった質問。
『カルゴーダ先生、なぜヒトは……』
「カルゴーダ先生」
王太子が振り向かずに言った。
「先生は以前、問いに対する答えは与えられるものではなく自ら導き出すものだと教えてくださいました」
『殿下、その問いの答えは誰かに与えられるものではありません。よく悩み、よく考え、自ら導き出すものです』
「ようやく、わかった気がするのです」
「聡明な殿下、それは大変よろしい。探求する心は学業を終えてなお、殿下の御心を豊かにするでしょう」
王太子も同じ記憶を辿っているらしい。何故だろう? 何故いま、そんな些細な、一冊の古い本を見つけたというだけの記憶にこだわるのだろう。
些細な記憶、それが些細なものではないとしたら?
ふと、諫家ウイの顔が浮かんだ。
「…………あの本ですが」
トゥエリクは、本を探すふりをやめ、申し訳なさそうに王太子の背中に言った。
「確かにここに収蔵したはずなのですが、どうも私の記憶違いのようで……後日、改めてお届けしましょう」
「先生は、あの本を読まれましたね?」
「あの本を? ええ、少しは。しかし、あれは少々難解で……」
「カルゴーダ先生が、記憶違いをするはずは無い」
すっと背筋が冷える。やはり、あの本を渡すべきではない。そう直感した。王太子が振り向いた。
「この部屋は嫌いです」
振り向いた王太子のその顔に気を取られた。そして不意に、とっ、と後ろから背中を突かれた。それは大した衝撃とも感じなかったのに、足がよろける。自分の胸から、赤黒い何かが生えた。
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