第5話 そして990年余り後の王立図書館②
アージネアは入口横の受付カウンターに戻ると、さして乱れてはいないというのにぱたぱたと肩や腕から埃を払い、襟や袖口を引っ張って服の皺を伸ばし、スカートの裾が捲れていないかを確かめ、胸元のリボンを整えた。鏡を持ってくればよかった。髪は大丈夫かな、と気にしたところで、はっと気づいて慌てて眼鏡を外し、咄嗟に上衣の裾で拭いた。
眼鏡は、黒砂が発見され金属やガラスの加工技術が格段に向上してから、比較的早くに発明された。まず父が試し、すっかり気に入って、少女ながらすでに本の虫となり視力が落ちていたアージネアにも誂えてくれた。母は女の子がそんな物をと随分渋ったが、きれいな髪飾りよりもドレスよりも、眼鏡を選んだアージネアを結局は許してくれた。その代わり、少しでも眼鏡が汚れているとすぐに叱られたけれど。
アージネアが眼鏡をかけ直し背筋を伸ばしたところで、正面のドアの金の装飾を施されたドアノブが静かに動き、白いドアがゆっくりとこちら側に開いた。ドアはそんなに重くないはずと訝しんだところで、ゆっくりと動いている理由が分かった。黒髪の女の子が背中でドアを押しているのだ。見ると、子供には少し大きい分厚い本を胸に抱えていて両手がふさがっている。そうしてドアを押し開けると、「さあ、お入りなさい」と大人びた口調で声をかけた。続けて二人の男の子が、やはり大きな本を抱えて入ってきた。
緊張のあまりドアを開けるのを手伝うことを思いつくのが遅れ、慌ててカウンターを出ようとしたところで、先輩司書の言葉を思い出し、やはり慌てて思いとどまった。「子供達には必要以上に手を貸してはいけない」のだった。
カウンターでかしこまっていると、きりりとした表情で女の子が真っ直ぐにアージネアを見た。
「バーニェッタです。授業が終わりましたので、本を返しに参りました」
言いながら丁寧に本をカウンターに置く。年齢は10歳のはずだが、落ち着いていて品がある。肩まで垂らした髪の左右を緩くすくって後ろで結わいている。その髪のひと房が少し乱れているのが雰囲気にそぐわない。黒髪と思ったが窓から差し込む陽光に透けると、それが濃い藍なのだとわかった。珍しい色だ。利発さを感じさせる琥珀色の大きな瞳が強い使命感で輝いている。
「ウイ・センシェットです」
横に並んで続いたのは、淡い栗色のくせっ毛が可愛らしい、雰囲気のやわらかい男の子だった。前もって聞いていた情報によると、バーニェッタの二つ年下の弟のはずだが姉と似ているのは琥珀色の瞳だけで、雰囲気も容貌も姉弟には見えない。ふんわりと微笑む顔がきらめいて天使のようだ。
「イオライエ・オブライム! あー重かったぁ。バーニ、ちゃんと名前言えよ」
そうぼやきながら二人よりは乱暴に、いかにも子供らしい仕草で本を置いたのは、ウイと同い年の宰相家の嫡男。男の子二人はそれぞれ3冊ずつ、バーニェッタが2冊、確かに子供には少し重かったかもしれない。アッシュブロンドの髪になんとなく寝癖の残る、本よりは運動が好きそうな溌溂とした子だ。
「イオライエ、控えなさい」
バーニェッタが、きりっとイオライエを睨みつけた。間に挟まれているウイは柔和な顔のまま、二人を見比べている。不思議と困っている様子はない。
「ちゃんと名前言わないバーニが悪い」
拗ねたようにそっぽを向くイオライエは、きっといつも年上のバーニェッタに叱られているのだろう。小さな隙を見つけて、ささやかな反撃をしているようだ。アージネアは三人が本を返しに来ることも三人の名前も知っていたが、わざとかしこまったまま、手元の書類に目をやった。
「はい、お待ちください」
「……ウルク、バーニェッタです」
書類に目を落とすとすぐに、バーニェッタが固い声で言った。せめてもの意地なのか、堂々としているのがいじらしい。きっと、貸出記録を調べるアージネアが困らないように名乗り直したのだろう。その名前を口に出したくなかった理由を察して少し胸が痛んだ。
「
意地悪なイオライエの声が飛び、バーニェッタがまた睨みつける。そこで思わず、アージネアは口を挟んでしまった。
「ウルクと言うのは……」
「姉上は……」
言いかけた言葉が、ウイの穏やかな声に被ってしまった。慌てて口を閉じたが、被ったウイも、イオライエも、そしてバーニェッタも、驚いたようにアージネアを見上げている。しまった、と思ったときには遅い。「子供達には必要以上に手を貸してはいけない」のだった。しかし、三人ともがアージネアを見上げ次の言葉を待っている。アージネアは一つ咳ばらいをした。
「ん、うぅんっ、えー、その、ウルクというのは、古い神話に出てくる冥府の番人の名前で、確かに一般的には『死神』と呼ばれています」
「ほら、死神姫だ!」と、イオライエ。
「近頃では、呪いを避けるために発音の難しい長い名前が流行しているため、三音と短く、しかも死神の名前ですから、女性の名前には相応しくないと思われるかもしれません」
そこでバーニェッタがきゅっと唇をかんだのに気づき、慌てて早口で続けた。
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