第4話 そして990年余り後の王立図書館①

 こうして英雄王ファリスは崩れ落ちる始原の岩山から辛くも脱出した。その地下深く『邪悪なるものの門』は閉じられ天より降り注いだ恵みの砂により永劫に封じられた。流れうつろう民のもとへ帰還した英雄王ファリスは荒野にその剣を突き立て、その地をファラナシアメルと名付け安寧と繁栄を約束した。それが、栄光のファラナシア王国のはじまりである




 ほう、と満足げに息をついて、アージネア・イアージョは分厚い本を丁寧に閉じた。やはり初期の建国神話は文章が簡潔でわかりやすい。後世の物は面白おかしく脚色されて演出過多だったり、中には英雄王ファリスが始原の岩山から脱出したときに、いつの間にか美女を救い出していて、それが後の王妃となったなどというロマンスまで組み込まれていたりと、『歴史家』の彼女を呆れさせた。もっと呆れるのは、それをかなり多くの世の女性たちが信じていることで、アージネアの歴史教育熱を掻き立てている。

 いま彼女が読んでいたのは初期の建国神話を中心に伝承をまとめた書物を正確に写したと言われている写本で、王立図書館に勤務しているからこそ閲覧することができる貴重な本だった。アージネアは子供の頃からの夢が叶い、この春から司書見習い兼記録官見習いに就任した。『歴史家』は自称である。なんでもやる雑用係と言われればそれまでだが、王立図書館の蔵書は読み放題、貴重な書物に触れることのできる理想の職場だ。

 読書の間に少しずれた眼鏡を直し背後を振り返る。彼女のいる入り口横のカウンターの先は、高い吹き抜けの天井が開放的な広い読書室になっている。壁にはその高い天井まで届く美しい書架がずらりと設えられ、中央の読書用の机が並ぶスペースを囲んでいる。書架の間にある大きな窓やカーテン、書架の梯子や手すり、机や椅子、卓上ランプ、どの調度にも美しい装飾が施されているのは、ここが王立図書館の最上階、三家のために特別に用意された読書室だからだ。貴族でも立ち入ることはできず、稀覯書などの保管にも使われている。今日は初めて、この美しい読書室の司書として入室が許され、ずっと読んでみたかった本にも触れることができ、まさにいま至福の時を過ごしているのだ。

 ファラナシア王国には始祖である英雄王ファリスの時代から、様々な記録が古くは粘土板や石板、時代が進んでからは絹布や紙などに数多く残されている。識字率が高く、紙や製本などの技術開発も盛んで、それが王国の長い繁栄を支えてきた。しかし、数が多いだけに古い記録が雑然と扱われていることも否めず、長い歴史の中で何度となくあった天災や人災で失われてしまったもの、神話なのか歴史なのかも判然としないまま収められているもの、高い識字率のためか偽の文書まであり、体系的にまとめることが必要と考えられるようになったのは、意外にもアージネアの祖父たちの時代からだ。それまでは神殿を中心に方々へ保管されていただけの膨大な記録を分類し、収蔵するための王立図書館の建設が決まったのは、建国1000年を記念してのことだった。神官だった祖父が『歴史家』という職業に就いたのは、晩年に神官を引退した後のことで、図書館の建設が始まってからだ。

 父の代に完成した荘厳な王立図書館の一部は庶民にも開放され、闘技場や野外劇場とは趣の異なる新たな娯楽施設となった。最近では同じ敷地に王立学校も併設され、老若男女身分を問わずに学ぶことができるようになり大変な人気を集めている。アージネアの2番目の夢は、その学校で自分の講座を持ち、歴史を教えることだ。

 自分が教壇に立ち歴史を教えるとしたら、どんな風にするだろう。それを考え始めるとアージネアの頭の中にはいろいろな場面が浮かび、胸がわくわくする。貴重なこの本を元に王国の英雄譚から始めるのはどうだろう。英雄王ファリスが大地に突き立てた剣は、どこにあるの? 目を輝かせながらアージネアが子供のころに抱いたのと同じ質問をしてくる、まだ見ぬ子供たちの姿まで想像して、彼女はまた至福のため息をつくのだった。

 ふと、卓上の読書ランプの灯火が揺れた。本を読むために点けたものだが、窓からは昼の日差しが入り始めカウンターテーブルのまわりは明るく照らされている。もう、消しても大丈夫だろうとランプのつまみを絞った。黒砂のランプを貸し出され好きなだけ使っていいと言われても、アージネアには黒砂はまだ貴重に思われて無駄遣いはできない。差し込む日差しの角度が変わったので、カーテンを引くため彼女は忙しく動き始めた。

 カーテンを引きながらふと、「そういえば、あんな表現は初めて見たような」と何かを思い出しかけたが、遠くで鳴り始めた鐘の音に気を取られ、すぐに心の隅に追いやってしまった。彼女は意外と、うっかりだった。



 鐘の音は、特別クラスの授業が終わったことを告げている。見習いの彼女が今日初めて任された最も大事な仕事が、まもなく始まろうとしていた。

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