8月29日 サン・パイオ〜サンティアゴ・デ・コンポステーラ 曇りのち晴れ

8時起床。歩き始めてから初めての朝寝坊。今日は10キロ歩けばサンティアゴに着く。わざわざ休憩する必要もないし、ひたすら歩き続けた。サンティアゴまであと4キロという標識を過ぎると、下り坂の途中で正面にサンティアゴの大きな街が見えてきた。あ、町が見えてきた、というこの感じは久しぶりだ。町に近づくにつれて車の騒音が増した。巡礼だけでなく一般の観光客や住民もたくさん歩いている。ごく普通の都市。


中心部の歴史地区。通りの両側に石造りの建物がいくつも隙間なく繋がっている。ヨーロッパでよく見かける典型的な古い通りだ。日本のマンションやアパートを横に長くしたのとは違う。一軒一軒は独立した家なのだけど、隣り合う家の間には1ミリの隙間もない。屋根の高さが不揃いなおかげでそれぞれが別の家だと分かる。いったいどうやって建てているんだろう?


通りの角を曲がって正面にカテドラル(大聖堂)の鐘楼が見えた時はさすがに、おお! と声が出た。愛しき我がゴールよ。


サンティアゴ大聖堂の広場に出ると大勢の巡礼が地べたに座寝そべって足やら腕やらをストレッチしていた。いや、この時間にここにいるなら今日はさほど歩いてないだろ。でもまあ、気持ちはよく分かる。近くにいた巡礼を捕まえて、大聖堂をバックに写真を撮ってもらった。明日は金曜日で大聖堂の入場料がタダだとダニエルから聞いたので今日は中に入る気はない。でも、ひょっとしたら大聖堂のスタンプがないと巡礼達成証明書がもらえないかもと思って入り口で訪ねてみた。

「カテドラルのスタンプはどこで貰えますか?」

「いや、カテドラルにスタンプはありませんよ」

良かった! これで問題なく証明書をもらいに行ける。ついでに巡礼事務所の場所を教えてもらった。広場を下って右に曲がる。


巡礼が集まっているので事務所はすぐに分かった。中に入ろうとすると係員に止められた。「まずはこのQRコードを読んで」

言われた通りにスマホでQRコードを読み取ると、名前や国籍、巡礼手段などの入力フォームが画面に現れた。なるほど、ここで必要な情報を全て入力すれば、巡礼証明書に自動で印刷される訳だ。


サクサクと入力していったけど、「巡礼目的」の項目だけ迷った。宗教的、非宗教的、その他の3つから選ぶのだが、僕の動機は明らかに宗教的ではない。わざわざ選択肢があるんだからどれを選んでも問題ないはず。でも、「非宗教的」と答えて証明書の発行を拒否されたという話をどこかで聞いたか読んだかした記憶がある。幸いこの項目は回答必須ではなかったから空欄にしておいた。これで準備オーケー。


入力完了の画面を係員に見せると番号札を発行してくれた。304番。中に進むと30人くらいの巡礼が2列に並んで自分の呼び出しを待っている。正面のモニターには現在呼び出し中の番号と窓口番号が表示されていて、まるで市役所にでも来たような気分。完全にシステム化されていてちょっと驚いた。ガイドブックには、長い時は2時間ほどの待ち時間を覚悟すべしと書いてあるけど、そんな事はとてもあり得ないように思える。10分も待たない内に僕の番号と16番窓口がモニターに現れた。中の様子もお土産売り場を除くとやっぱり市役所のようだ。


こんにちはと挨拶して椅子に座る。2冊の巡礼手帳を机の上に出すと、向かい合った男性がそれらをざっと改めてから言った。「巡礼達成おめでとう!」僕も心からありがとうと答えた。「さあ、これが最後のスタンプです」そう言うと、2冊の巡礼手帳の「巡礼達成欄」にスタンプを押してくれた。日本から持参した熊野古道との共通巡礼手帳の「2つの巡礼達成欄」にもスタンプを押しそうだったので、慌てて「そこはまだです! 僕はまだこっちを歩いていないから!」と男性を制した。すると、隣のカウンターの年配の女性が「いいのよ、この欄にはカミーノと熊野古道の2つのスタンプを並べて押すのよ」と教えてくれた。熊野古道という単語がスッと出てきたのに驚いたけど、彼女は2つの巡礼についてもよく知っているようだった。僕を担当してくれた男性が「実は私も来年は日本に行って熊野古道を歩こうと思っているんだ。君の共通巡礼手帳はどこで手に入る?」と訊くので、たぶんインターネットで手に入ると思うと答えた。すると物知りの女性がこっちを向いて言う。「実はここから少し行った所の教会で、この共通巡礼手帳を貰う事もできるのよ」なんと! でも確かにスペインで手に入らなかったら、共通巡礼を達成するために、スペイン人はめず熊野古道から歩き始めなくてはならない。僕には興味深い話だったけど、隣のカウンターの巡礼はその間ずっと待たされていてちょっと申し訳なかった。


担当者がその年配の女性に代わって、証明書について説明してくれた。かつて、千年も前の巡礼も同じように達成証明書を発行してもらっていたという事、証明書の文面は当時と同じようにラテン語で書かれているという事、サンティアゴが公式に発行した証明書である事、などなど。説明に対して僕はお礼を述べた。


それじゃあ、良い1日を! と挨拶しかけて、気になっていた事をついでに尋ねてみた。「馬で巡礼する人は本当にいるんですか?」

「少ないけれどいるわよ」そうか、本当にいるんだ。「サンティアゴ大聖堂の広場に馬が入れるのは朝7時から8時の間だけだから、その時間にしか見られないけれど」

確かに今みたいに人で溢れている広場に馬で乗り込んだら大騒ぎになるだろう。女性はYouTubeでも見られるわよと教えてくれた。巡礼手帳の「馬で巡礼」のチェックランは伊達ではなかったのだ。


巡礼達成。間違いなく嬉しいけど、特別な達成感はない。不思議だけど、四国遍路で結願した時もそうだった。プロセスの途上の方が充実している。振り返って感慨深く感じたのも今日じゃなくて昨日だった。サンティアゴにたどり着た後、「世界の果て」であるフィニテッレまで90キロの道のりを歩く巡礼の気持ちがよく理解できる。


さて、今日はどうしようか。サンティアゴにたどり着き巡礼達成証明書をもらってしまうと、完全に目標を失う。観光でもするか。でも普通の観光って何するんだっけ? サンティアゴ市内の歴史地区はとても美しい。それは間違いないけど、2時間近く縦横無尽に迷路のような細い路地を大勢の観光客やたち並ぶ土産物屋を見ていたら飽きた。そうだ、観光案内所に行こう! なんで今まで思い浮かばなかったんだろうと思いながら観光案内所に行く。入り口に「世界遺産を歩こう」という日本語のポスターが貼られていた。和歌山県の努力が伺える。四国八十八ヶ所と比べると世界遺産なのにどうも熊野古道の知名度はイマイチだ。案内所で市内の地図をもらい見所を教えてもらう。でもほとんどは美術館、博物館の類でどうも気乗りしない。「サンティアゴ大聖堂は毎週金曜日が入場料無料と聞きましたかど、そうなんですよね?」今日は木曜日。窓口のお姉さんに訊ねると「いえ、大聖堂は毎日無料ですよ」との答え。ダニエル、情報間違ってるよ。でもそれならという事で、サンティアゴ大聖堂を観に行くことにした。これを外すのはあり得ないだろう。


列に並んでいよいよ入り口という段になって「バックパックは持ち込めません」という注意書きに気がついた。え、マジか。途方に暮れていると、入り口付近で「食べる物がありません。助けてください」というプリカードを掲げてお布施を募っていた女性が「あそこのお店でバックパックを預かってもらえるわよ」と教えてくれた。行ってみると3ユーロで預かってくれるとのこと。色んな商売があるものだ。バックパックを預けて先ほどの女性にお礼を言う。ついでに小銭を渡した。再び列に並ばずに、ちゃっかりそのまま中に入ってしまった。


中に入ると金ピカぶりに目を奪われる。豪華絢爛。千年以上もの間、多くの巡礼がこの大聖堂を目指して歩いてきて、そしてここで祈りと共に多額の寄付をしたのだ。キリスト教の、そしてサンティアゴの威光がどれだけのものだったのかが肌で実感できる。名物の振り香炉は振られてなく、今日は静止していた。6年前にも一回来ているはずだけど、何も記憶に残ってない。大聖堂は豪華だけど、ひと回りすれば僕にはそれで十分だ。


預けたバックパックを受け取って正面の石段を登ると、そこにも列が出来ていた。先ほどとは別の入り口から、こっちはサンティアゴの遺骸が収められた棺を見ることかできるのだという。しくじった。バックパック、持ってきちゃったよ。また3ユーロ払う気にならず、入り口で止められたらその場に荷物を置くつもりで列に並んだ。意外にもまったく静止されず中に入れた。案外ザルだ。階段を登って狭い通路を進む。銀の棺を眺めてから階段を降りて、再び大聖堂の中へ。この狭い通路には見覚えがあった。


観光はもういいかという気がしている。いつものように歩いていたら、ちょうどチェックインするくらいの時間になっていた。歩いていないと、1日はずいぶんと長い。

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