8月23日 トラバデロ〜リニャーレス 快晴

今日は9時に歩き始めた。普段よりも相当遅い。でも今日は20キロしか歩かない。最初の町でカフェに入り、かなり時間をかけて朝ごはんを食べる。テラスに座っていると、何人もの巡礼が目の前を通り過ぎていく。知った顔もいれば知らない顔もいる。巡礼ではないカップルの男性が去り際、僕に声を掛けてきた。


「実は僕も日曜日にカミーノを歩き終えたところなんだ」

「本当? どこから始めたの?」

「サリーア」

巡礼達成のためには最低100キロを徒歩で歩かねばならず、その条件を満たす最短の町がサリーア。だから、ここから歩き始める巡礼は多いと聞く。

「それじゃ、ブエン・カミーノ!」

「ありがとう! よい1日を」

経験を共有しているという嬉しさがある。この感覚が僕は好きだ。


サムエルが通りかかった。「ハイ、トシ!」「ハイ、サムエル!」しばらくサムエルと連れ立って歩く。


電話で話終えたサムエルが「この後、オ・セブレイロまでの道はめちゃくちゃ綺麗らしいよ。友達がそう言ってた」と言う。町を出ると巡礼路が山道に変わった。カミーノではほとんど見たことがない本当の自然路で、ただ土を踏み固めてできた道。周りは樹木に囲まれ、日光が樹冠に遮られている。なるほど、これのことか。もし、この類の自然路が好きだったら四国遍路はきっと楽しめるだろう。焼山寺へ至る遍路転がしも、鶴林寺から太龍寺までのアップダウンも、高知と愛媛の県境の峠道も、お遍路ではこんな道ばかりだ。


標高1300メートルに位置するオ・セブレイロまではずっと登り坂が続く。高低差はおよそ600メートル。水平距離は8キロあるので、そこまで勾配が急ということもないけど、それでも楽な道ではない。かなりの速さで僕を追い越していく男がいて、よく見ると2日前にポンフェラーダで会った3人組の1人だ。向こうも僕を覚えていて、僕が何も言わないうちから「今日は一人さ。あとの2人はビジャフランカにいるよ」と言ってきた。

「この道、美しいよね」僕が言うと「最高だよ!」と言いながら坂を登っていった。よくあのスピードで歩けるなと思いながら、彼の背中を見る。Tシャツを絞れるほど汗をかいたのは久しぶり。炎天下にメセタ(卓状地)を歩いた時以来だ。今日は20キロの行程にしておいて正解だった。


『星の巡礼』のイメージがあったのでオ・セブレイロは厳かな雰囲気に包まれた小さな寂れた村だと思っていたけど、実際はめちゃくちゃ観光地で路上駐車の長い列ができていた(なぜか駐車場というものはないようだ)。お土産屋も充実していて観光地に外せないキーホルダーとか「オ・セブレイロ」と印刷されたおもちゃの剣とか弓とかが売られていた。もちろん、ここまで来て誰が買うのか分からない、巡礼用の杖や帆立貝も所狭しと並んでいる。まったく性根逞しい。


オ・セブレイロは巡礼宿も充実しているけれど、ここをゴールにすると今日は18キロしか歩かないことになる。ウルトレイヤ! さすがにもう少しは進みたい。という訳で、僕は3キロ先の巡礼宿(アルベルゲ)を予約しておいた。ただし宿の周辺にはレストランもバーもカフェもないので、オ・セブレイロでかなり早めの夕飯を食べておく。さすが観光地だけあってまだ15時前という中途半端な時間帯でも定食が食べられる。名前に惹かれて選んだガリシア牛のステーキが非常に美味しく赤ワインによく合う。


宿には16時に到着した。予約しておいた旨を受付で伝える。

「じゃあ、パスポートを見せてもらえる?」

いつも通りのやり取り。財布兼パスポート入れにしているジップケースからパスポートを取り出そうとすると、無い! パスポートが無い! ひょっとして別の場所に仕舞ったのかもと思い、ウエストポーチとサコッシュの中身を全て椅子の上にぶちまけて中を確かめたけどパスポートが見当たらない。頭がサーッと真っ白になった。


こういう場合、どうすれば良いんだっけ? まずは大使館に連絡か。パスポートの再発行用に写真も必要だな。でも、大都市にしか大使館はないから、これでカミーノ巡礼も終わりか……。巡礼打ち切り。それが何より心に重くのしかかった。頭が冷静に機能しているように思えてそうではなかったのかもしれない。


どこで無くしたんだろう? 昨夜のホテル? 荷物をぶちまけている僕をじっと見つめる受付のお姉さんに、昨夜のホテルにパスポートの有無を問い合わせてくれないかとお願いした。ホテル名と電話番号を伝える。もしホテルじゃなかったら、カミーノの道中のどこかという事になるが、そしたらもうどうしようもない。万事休す。ホテルであってくれ!


「ホテルにあるそうよ」

お姉さんが教えてくれた。全身から力が抜けた。良かった、助かった。明日の宿泊先に届けてくれると言うので、連絡先を伝える。カミーノでは荷物の配送サービスが充実しており、歩く時の荷物は最小限に、着替えや日用品を前の宿泊先から次の宿泊先に届けてくれるのだ。パスポートもそんな感じのサービスを利用して届けてくれるのだろう。


一旦はこれで良しと思ったけど、やはり手元にパスポートがないのは落ち着かない。シャワーを浴び、考え直した。幸い今日は20キロしか歩いてない。つまり、昨夜のホテルはそう遠くないわけだ。タクシーで往復すればそんなに時間もかからないだろう。

「タクシーでパスポートを取ってきてもらうの?」

「いや、僕もタクシーでホテルまで行く。そしてパスポートを受け取ってからここに戻ってくる」

「オーケー、じゃあタクシーを呼ぶわね」

10分もかからないでタクシーがやってきた。話はすべて通っているみたいで、行き先も言わないうちにタクシーが走り出した。しかし、運転手はちょっと不満そうだ。

「俺がホテルまでパスポートを取りに行って、それからここへ届けたらよいだろう。なんでお前さんもわざわざホテルまで行くんだ?」

ひょっとして僕が運転手を信用していないと思われたのかも。でも、こんな状況なら誰でも、一刻も早く自分の手元にパスポートを取り戻したいのではないだろうか。まあ、そんな経験がないから理解しにくいのだろう。

「今までにパスポートをなくした事がないから落ち着かないんだ」と理由になっていないような理由を答えた。


それにしても車は早い。たぶん自動車道はカミーノより遠回りなのだが、それでも30分もかからずにホテルに到着した。受付のおじさんは「済まん済まん、私のミスだ」と言いながらパスポートを手渡してくれた。たぶん、チェックインの際にパスポートを返し忘れたのだ。でも、そんなことはどうでもよい。パスポートが無事に戻ってきて、これで巡礼が続けられる。それが何よりも嬉しい。再びタクシーに乗り込み、「これで今夜はよく眠れそう」と言うと、運転手も笑ってくれた。

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