8月13日 オンタナス〜バアディジャ・デル・カミーノ 晴れのち曇り

標高が高いせいもあるのか、朝7時の気温は17度と低い。しばらくは斜面を上下に分けるように作られた小径を歩く。その小径から見て下側、小麦畑の中を2匹の鹿が軽やかなステップで走っていくのが見えた。時折「鹿に注意!」みたいな道路標識を見かけたけれど、鹿を見たのはこれが初めてだ。農地に出没するという事は害獣扱いされているのだろうか。


今日は昨日と同じ時刻に歩き始めたのに、前後に巡礼の姿がまったく見えない。この道が正しいのかどうか、少しばかり不安になりかけてきた時にサン・アントンの巨大な石門が見えてきた。その横には同じ石造りの古い建物が隣接している。14世紀の巡礼病院(救護院)だが、今は巡礼宿(アルベルゲ)として使われている。この巡礼宿でドイツ青年のルシアルとマクシムに再会した。ちょうど建物の外で歯を磨いていた。もっと先まで進んだと思っていたけど、案外先までは進まなかったようだ。彼らもメセタが気に入ったと言っていた。理由は静かだから。昨日のベテラン巡礼と同じ答えだ。ひょっとしたら僕が少数派なのかもしれない。


彼らと話している時、別の若い巡礼がやってきて少し話したのだが、驚いたことにこの青年はロシアのモスクワから来たと答えた。聞き違えかと思った。だって、まさに戦争中の国からレジャーで外国に来るなんて信じられない! 実は今日の夕飯でこのロシア青年と同席することになって、少しばかりセンシティブな話題だけどと前置きした質問した。「『この時期』に旅行するなんて普通じゃないんじゃない?」彼の答えは、以前より難しくなったけれど、別に特別な事じゃないよ。うーん、僕がしつさいるロシア情勢とだいぶ違うんだけど、現に目の前にロシア青年がいるしなあ。


正午を過ぎたくらいから雲が広がってきて、青空をほとんど覆ってしまった。いや、これはありがたい。これぞ巡礼日和だ。


橋を渡る。久しぶりに信号を見た。1車線しかないから相互通行のために信号機が設置してある。橋を渡った所が県境。ここからパランシア県だ(バレンシアではない)。県境が風景を変えているわけではないのだろうが、実際に風景がガラリと変わった。これまでに見た事のない緑色の畑。さっそくグーグル先生に聞いてみるとビート畑との答えを得た。でも、今まで食べたサラダにビートなんて入ってなかったような。畑に設置されたスプリンクラーが自動で水撒きしている。360度回転しながら水を撒いているのはよいけれど、水が畑だけでなく巡礼路まで撒き散らさせている。うまくタイミングを見計らって歩いたつもりだけど、結局かなり濡れた。日差しが強ければこれも天の恵みといった感じなのだろうけど、今日はそんなにありがたくない。


次の小さな村で昨夜一緒に夕飯を食べた2人のアメリカ人と2人のイギリス人に再会した。僕は「トシ!」と声を掛けられるまで気づかなかったけれど。今日の宿がある次の町までイギリス人の2人と一緒に歩くことにした。似たようなペースで歩いているから行程もほとんど同じなのだ。歩きながら巡礼の動機を尋ねると、宗教的な理由も少しはあるけれど、自己を見つめる事ができる、内省が大きな理由のひとつらしい。彼ら夫婦のうち夫の方はかつて冬にこの道を歩いて巡礼達成していて、今回が2回目のカミーノだ。1度巡礼を終えて2度目に出るくらいだからその価値はあるのだろうけれど、次は無いと断言した。「2度歩けば十分」でも、少なくとも2度目を歩く何かはあったわけだ。たぶん僕はそう思わないだろう。四国遍路をもう1回歩きたいとは思わない。


カミーノを歩くと何かが変わる。これが彼の持論らしい。僕は2日目に宿を取り損ね、それ以降、計画を入念にして必ず宿を確保するようにした。僕がそう言うと、


昨日とほとんど同じ距離を歩いたけれど、1時間早く宿に着いた。やはり曇っていて涼しかったのが大きい。午後の一番暑い時間帯で28度しかない。結局、僕のほかの4人も同じ宿だった。流されるように1時間後にレストランで集合という話になった。シャワーを浴びてちょっとくつろいだらすぐにその時間だ。いつの間にか人数が増えていて、テーブルの上に人数以上のビールジャッキが場所を占めている。正直な話、僕はビール好きだけど、彼らとは内臓の作りが違う。ジャッキだらけの光景には少し恐怖心が湧き起こる。僕にとって新顔は南アフリカ、ドイツ、フランス、バルセロナからの面々。やっぱり大勢でワイワイやるのは楽しい。


好きな映画トップ5みたいな話題になった時に、一番盛り上がっていた2人の上げたタイトルのどれひとつ観た事がなかったので全く口を挟まず困ったけれど(イギリス人の心理学教授は黒澤明の『用心棒』をリストに含めていたけれど、そんな古い映画は名前しか知らない。彼は帰国後に必ず観るように僕に言った)。僕が挙げたタイトル『サウンドオブミュージック』『シンドラーのリスト』『ホテルルワンダ』は良い映画だと彼ら言ってくれた。3つしか挙げられないのが残念だけど、映画のタイトルなんてあまり覚えてない。


でも映画はともかく、毎日毎晩色んな国から来たバラエティに富んだ人たちとご飯を共にしお喋りできる。これは間違いなくカミーノのご利益だと思う。

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