8月6日 アイェグイ〜サンソル 快晴時々晴れ

昨夜は熟睡したとは言いがたい。暑さのせいではなく、同室の男性が呻いたり唸ったりため息を吐いていたりしていたからだ。でも、それを責めるつもりはない。夏祭りの最中とかで、深夜2時過ぎまでテクノ系音楽が大音量で流れていたのだから。そして、明け方は冷たい風が部屋に流れ込んできて寒い。毛布が欲しい。適温という状態がない。どうにか3時間くらいは寝ただろうか。


目が覚めてしまい流石にもう眠れない。目覚ましのアラーム設定を解除し、ダラダラと身支度を整えた。時刻は7時20分。さあ、今日も歩き始めよう。


歩き始めてすぐに気がついたのは、早朝は日差しも強くなく涼しいという当たり前の事実。これはかなり歩きやすい。怪我の功名という奴だ。


最初の小さな町でチョコクロワッサン、ポテトオムレツ、カフェオレ、オレンジジュースの朝食をとる。しめて11ユーロ。スペインでオレンジジュースを頼むと、普通は搾りたての生搾りジュースが出てくる。身体がビタミンCを必要としているように全身に染み渡るように感じる。


それにしても、今日は僕の前も後ろも実にたくさんの巡礼が歩いている。エステージャはそれなりに大きな町なので、そこの宿に投宿した巡礼が多い。僕の巡礼宿はエステージャの郊外なので、歩き始めるタイミングが彼らとシンクロしているというわけだ。今日は一日中、同じ顔ぶれと何度も「ブエン・カミーノ」と挨拶を交わすことになった。


多くの巡礼と一緒に歩く事にはメリットもデメリットもある。明白なメリットは道を間違えなくて済む事。道が分かれていても、前方に巡礼の姿が見えていれば、そっちが正しい道だと分かる。この安心感は大きい。デメリットは歩くペースをコントロールしにくい事。もちろん他人は他人、自分は自分というつもりで歩いているのだが、ついつい周りのペースに影響され、大抵はペースアップしてしまう。マラソン選手や駅伝選手はペース配分が肝心とのことだが、僭越ながらよく理解できる。


ワインの名産地イラチェは韓国人観光客が多いのか、お土産品の工房入り口にもハングルが見える。韓国人といえば僕の顔立ちは韓国人に見えるらしく、日本中で『冬のソナタ』が大ブームを巻き起こしていた若い頃、新宿のど真ん中で見知らぬおばさんに「あ! ヨン様だ!」といきなり叫ばれた事もある。海外旅行でも、あなた、韓国人? と聞かれるなど日常茶飯事だ。と思っていたら、巡礼ではない韓国人のご家族連れにすれ違い様、笑顔で「アニョハセヨー」と挨拶された。仕方なく、僕も同じようにアニョハセヨーと返す。久しぶりに非スペイン語の挨拶を発した。


次の集落に到着。目が合ったおじさんに習慣的にあいさつすると、

「ブエン・カミーノ、ウルトレイヤ」

おお! 生ウルトレイヤを初めて聞いた! 彼方へ、より遠くまで。その通り、とにかく先へ進まなければ。


今日の行程だと、1番大きな町はロス・アルコス。予定よりも早く、5時間で到着した。やはり周りのペースになってしまっていたのかもしれない。その分、ロス・アルコスで少し長めの休憩を取ることにした。町の出口付近にサンタマリア教会があり、教会が作る影で目の前のベンチがすっぽりと覆われている。ここなら落ち着いて休憩が取れる。


教会そのものも扉が開いており、中に入る事ができた。前と同じく、両手を組み額に当て、巡礼達成の祈りを捧げた。もちろんスタンプも忘れずに。達成証明書を発行拒否されないように。スタンプ台の前に黒い長衣をまとった男性がいたので、てっきり教会の神父かと思ったら、僕と同じ巡礼だった。しかし、あんな暑そうな格好で歩いているのだろうか?


ロス・アルコスの名前は僕の印象に残っている。というのも、オランダ作家のセース・ソーテボームによる『サンティアゴへの回り道』に出てきた一節が記憶に残っているからだ。それは《ロス・アルコス……には巡礼者にただで朝のマッサージをしてくれるひとりの男がいた》というもので、それを期待していたわけではないが、ひょっとしたらマッサージで有名な町なのかな? と想像していたのだった。実際にマッサージ屋さんを見つけた時は色めき立ったが、まあ無料ということはないだろう。


たっぷり30分休憩を取り、再び歩き始める。長めの休憩を取ったのだから、この後はバッチリかというと、そうは問屋が卸さないのが巡礼だ。歩いている最中は気にならない筋肉痛が戻ってきてしまい、しばらくはペースが上がらない。


ふと、周りを見渡すと、さっきまであれほど歩いていた巡礼の姿がまったく見えない。ほとんどの巡礼はロス・アルコスでそれぞれの宿に散ったのだ。次の町、僕の宿泊先があるサンサカルまでは7キロあるし、日差しが最もキツい時間帯という事を考えても自然だと思う。でも、それだと帰国日までにサンティアゴ・デ・コンポステーラにたどりつけなくなってしまう。


気温は35度。直射日光を遮る物が何もなく、ただひたすらに真っ直ぐ伸びている巡礼路を歩くのはちょっとばかり恐ろしい。一本道だから道に迷う事はなさそうだけど、もし今、日射病にでもなって倒れたら、明日の朝まで誰にも発見されないだろう、などというどうしようまない考えが頭に浮かぶ。さっき見た蛇の抜け殻とネズミの死骸がネガティブな思考を増幅しているのかもしれない。


教会前の水道で汲んだペットボトルの水を少しずつ飲む。ぬるくなった硬水はなんでこんなに美味しくないんだろう。


だいたい予想通りの時間に宿に到着した。いつもながら、この瞬間が何にも代え難い。しかも今日は個室! ゆっくり休むぞ。

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