8月4日 イジャラッツ〜プエンテ・ラ・レイナ 快晴

もう諦めているが、やはり眠れない。当然だ。眠れないなら起きているしかないが、それだったら歩いた方がよい。何より寒いので、身体を動かしたい。


現在地は巡礼道から外れている。復帰するのはさほど難しくないが、真夜中に森の中の自然路を歩くなどは正気の沙汰ではない。真っ暗で何も見えないし野犬もいそうだ。時々山中から遠吠えが聞こえる。疲れていてもそのくらいの判断は付く。


となると、巡礼道と並走している国道を歩くしかない。しかし、これも怖い道なのだ。深夜1時を回ってもまだ車の往来がある。街路灯などないから暗闇から猛スピードで自動車が現れるとヒヤリとする。もし、こんな所で交通事故にでも遭って死んだら、妻も両親も、あるいは友人や同僚もなんでこんなバカなことをしたのかと呆れながら嘆くだろう。とはいえ、歩き始めてしまった以上、町と町の間で立ち往生するわけにはいかない。それこそ危険行為そのものだ。


何も明かりのないおかげで、空を見上げると満天の星。こんなに沢山の星をはっきりと見たのはいつぶりだろう? こじつけなのは承知の上だが、これは夜道を歩いたことのご利益だ。


2つの小さな町を過ぎ、3つめのやはり小さな町で休憩にする。近くは朝4時。夜が明けるまではまだ2時間以上ある。時差の関係で昼飯時の日本から妻のラインが届く。「治安は大丈夫なのか。無理しないように」妻は僕が公園で野宿していると思ってこのメッセージをくれたのだが、確かに国道を歩いていて、犯罪者の運転する自動車と鉢合わせることもあるのかもしれない。


街灯に照らされたベンチでじっとする。でも、やはり眠れない。パーカーのジップを上まで上げ、飛行機で使ったネックピローを首に巻いたが、それでも寒い。夜が明ければここから正規の森中の巡礼道を8キロほど歩けばパンプローナに着く。しかし、それまでまだ2時間半くらいある。


せっかくなのでこの時間を使って宿を予約することにした。ガイドブックを見ながら大体1日30キロのペースで歩くつもりで町を調べ、booking.comでオスタルやアルベルゲなどを探して予約する。


意を決してまた国道を進むことにした。手元のガイドブックの地図を見ると多少遠回りになるが、それでもパンプローナに早く到着できるように思えた。実際には地図が大雑把で、多少の遠回りどころではなかった。そもそも途中から自分がどこを歩いているこすら分からなくなってしまった。とりあえずのゴールをGoogleマップに入れると、自動車で18分と出た。この道、制限速度が100キロなんだけど……。


なんでこんなことになってしまったんだろう? 宿を取りそびれたせいで、次々に問題が生じてしまう。たったひとつ、ボタンを掛け違えただけなのに。本当に泣きたくなった。


パンプローナはバスク地方では大きな街だ。サン・フェルミンと呼ばれる牛追い祭りで有名な街でもある。実は今から6年前、スペインに1年間滞在した際に牛追い祭りを観に来たことがある。時に死者も出るという荒々しい祭りで、猪突猛進(牛だけど)の勢いで人間を追いかける牛たちを間近で観たのを思い出す。牛たちは闘牛場に誘導され最終的には闘牛士に殺されてしまう。


スペインでも「残酷だ」という声が大きい闘牛は各地で廃止されつつあるが、パンプローナは何と言っても牛追い祭りの地だ。闘牛が廃止されるとは思えない。6年前、ダフ屋からチケットを買って観戦した闘牛は会場中が熱気に溢れていた。超満員の闘牛場では老若男女がバスク語で闘牛士を励ます言葉を叫んでいた。


だからパンプローナは僕にとっても思い出深い地で、見覚えのある場所も随所に見かける。でも、さすがに今、街中を歩いて観光しようという気にはならない。


ウルトレイヤ! とにかくより遠くまで、先に進みたい。


パンプローナの出口、「サダル川橋」に到着したのは朝の8時。思ったよりも時間がかかったが、ようやく正規の巡礼道に戻れたことが何よりも嬉しい。6時に15度だった気温が23度まで上がっていた。


昨日の教訓を活かして予約した宿までは23.8キロ。ここまですでに16.9キロ(実際にはそれ以上)歩いている。何より昨夜は一睡もしていない。普段ならどうってことのない距離なのだが、本当に歩き切れるかどうか、ジブでも確信が持てない。妻は「無理しないように。タクシーを使ってもよいじゃない」という。全く正当な忠告だが、巡礼3日目にして歩くのをやめてしまったら、この後はきっとどうでもよくなってしまう。


よし、歩こう。ペースを抑えて休憩を定期的にとる。急がずにいく。巨大な風車が並ぶ尾根までの登りとその後の下り坂を最長10時間かけるつもりで歩く。


一睡もしていないのに全く眠気を感じないのは太陽光を全身に浴びているせいか、あるいは感覚がおかしくなっているのかも。不思議と空腹感もない。


視線の先にも、振り返った後ろにも巡礼の姿がある。彼らはパンプローナから今日の巡礼を始めているのだろう。いかにも意気軒昂といった感じが羨ましい。


自然路をどんどんと登っていく。周囲は一面が畑だらけ。稲刈り後の乾いた田んぼ様の畑が広がっているが、まさか米作ではないだろう。なんだろう? 藁で作った巨大なサイコロが積み重ねられている。米ではなく小麦なのかもしれない。


途中の小さな集落で教会に立ち寄った。ここまで、開放中の教会はほとんどなかった。長椅子に腰掛け両手を組んで祈る。どうか無事にサンティアゴ巡礼を終えられますように。なんの衒いもなく、そんな祈りが自然に口をついて出たのに我ながら驚いた。昨夜の惨めな思いのせいもあると思う。


入り口で1ユーロ寄付し、巡礼手帳にスタンプを押してもらった。教会のスタンプはこれが初めてだ。サンティアゴ・デ・コンポステーラに到着後、教会のスタンプがひとつもなくて巡礼達成証明の交付を断られたという話を何かで読んだことがある。ひとまず、これがあれば安心だ。でも、教会でスタンプを押してもらうのは案外難しい。だって、そもそも教会が開いてないことの方が多いのだ。曜日の問題なのか、時間帯の問題なのか。


無理せず休み休み歩いてきたが、予定よりもかなり早く午後1時前には山頂に到着した。麓からは小さく見えた風車だが、ここまで来ると巨大さが分かる。ビュンビュンと轟音を立てながら3本の羽が回っている。もしもドンキホーテが挑んだ風車がこの大きさだったら、きっと身体がバラバラになっただろう。


あとは下り坂だ。もちろん下り坂こそ注意深く歩く必要がある。でも、歩く速さは登りよりは速く、これなら遅くとも17時には宿に着きそうだ。でも、ペースを上げすぎず、慎重に。これだけは心掛けて下る。所々、坂道に階段が作られている。もちろん親切心から設置しているはずなのだが、踏面が歩調と合わないと、坂道よりもかえって膝にくる。これは四国遍路でも経験済みだ。それに加え、一段一段が欧米人仕様で高い。これがかなり辛い。


いくつかの集落を通り過ぎる。空腹感はないが喉は渇く。給水所では必ずペットボトルを満たしつつ、バーでは冷えたアクエリアスや炭酸水をがぶ飲みする。ああ、命の水。


葡萄畑を過ぎて今日のゴール、プエンテ・ラ・レイナの町が見えてきた。本当に歩けたんだ! 自分でも信じられないくらいだけど、心の底から達成感が湧く。このあとの巡礼でどんなに辛い事があっても、今日を思い出せばきっと乗り切れる。


宿は個室。部屋がある、ベッドがある。寝る場所があるとはなんと素敵なことか。夕飯は奮発した。自分へのささやかなご褒美。

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