豚、王女の手を取る

 黄金から黒へと変わり、そしてその真の名を口にしたヘルナ……いや、ヘルナ殿下。

 そうではないかと考えたことはある。そしてそれを冗談交じりに口にし、否定されたことでもある。

 音に聞こえし第三王女。古きにして尊き血筋。武勇と魔法に秀でているとされた愛らしき姫君。

 髪と瞳の色は移り変わる前の、サザンカエルの王族特有の黄金や琥珀だと聞いていたが、まさかその内は黒に染まっていたとは。


「……ヘルナ殿下。今までの無礼、どうかお許しを」


 思うことはあれど、ともかく膝を突き、深く頭を垂れて恭順を示す。

 相手は誉れある王族。卑しき冒険者故に作法など知らないが、それは最低限の礼儀は心得ている。

 不敬にも抱きかかえ、あろうことか死地へ趣かせた。それは今ここで断罪されてもおかしくないほどの重罪に他ならないのだ。


「や、やめてください! 今ここでへりくだられても困りますっ!」

「なりません。貴女は王族なのです。下賎な俗物でしかない荒くれめが目線を揃えるなどあってはならないこと」

「あーもうっ! だから嫌だったのにっ! ……じゃあ命令です! 面を上げて立ってください! 後その敬語もやめてくださいねっ! まったく公式な場でもないのでっ!」

「……お心のままに」


 一瞬頭を抱えたヘルナ殿下であったが、すぐにこちらを指差しそのように命じてくる。

 ……仕方ない。そのように振るまえとおっしゃるのであればそうせざるを得ない。そして無礼極まりないが、俺もその方がやりやすくて助かりはする。

 立ち上がって再び彼女を見下ろすが、やはりどうにも居心地の悪さを感じてしまって仕方ない。

 背丈故に仕方ないのだが、それでも正体を知ってしまえば気にしてしまうのも当然。いっそ本物の豚であれば、目線も立場も気にしなくていいのだがな。


「それでヘルナ殿下──」

「ヘ・ル・ナ!」

「……ヘルナ殿。王族である貴女が、何故なにゆえこのような場所まで?」


 呼び方まで訂正されて、少し固くも何とか先ほどまでと同じように心がけ。

 けれども目線同様、どうにも居心地悪く感じながらも気を取り直して彼女へと問いかけた。

 

「……はあっ、まあとりあえずはそれでいいです。じゃあ話しますので、しっかりと聞いてくださいね!」

「もちろんです」

「……かったいなぁ。体は柔らかいのに」


 ヘルナ殿下は顔に不満を表しながらも、大きなため息一つでどうにか納得して改まる。

 しかし黒髪か。この国では珍しい、


「ごほんっ! まずここですが、その名を夜継やつぎの祭壇。この世界──スターリアに五つ存在する、そのうちサザンカエルが保有する紅の儀式場です」

「五つ?」

「はい。スターリアに存在する五つの国、そのいずれもが一つずつ保有していると伝承には残っています」


 ……随分と壮大な話だ。サザンカエルでさえ広大だというのに、それを突き抜けた世界全土とは。


 紅と緑の国、サザンカエル。

 歴史と魔法と迷宮の国、アクアシカ。

 白であったはずなつるぎの国、ナギアクマ。

 力と獣の国、ズリアリギリス。

 そして未だ竜が治める国、シニタエズノリュウ。


 スターリアに存在する五つの国。そのうちサザンカエル以外の四カ国について、俺が知っているのは簡単な伝聞程度。

 いずれも想像のつかない、俺にとってはこの場所と同じくらいには未知に溢れた場所達。いつか機会があれば旅してみたいと考えた事はあるが、まさかこんな所で名前を聞くことになるとはな。


「わたしはそのいずれもを巡り、力を授かり、そして夜を紡がねばならないのです」

「……まず聞きたいが、その夜を紡ぐとは何だ?」

「……これから話すのは、サザンカエル王家が代々紡いできた歴史の中で最も重要なこと。大部分は省略しますが、それでも少し長くなります。よろしいですか?」

「ああ」


 ヘルナ殿下の確認に悩む余地も無く頷きながら、少し心臓の鼓動が弾んでいるのを実感する。

 柄にもなく高揚しているのは自覚している。その一言が早く彼女の喉から出てほしいと、強く切望してしまっている。

 俺とて冒険者。どこまでいこうと童心を忘れられず、こういう話に胸を弾ませてしまっているのだ。

 

「まずピグスさん。あなたはヨイという神をご存じでしょうか?」

「ああ。世界に夜をもたらした神だろう?」


 そんな渇望を決して表には出さず、ヘルナ殿下の問いに首と縦へと振って肯定する。

 ヨイ。彼女や酒場で酒を飲み交わし、紅蓮鉱山サラマンディアについて語った際にその名を出した神。

 とはいっても俺も詳しくは知らない。言葉どおり夜のなかった時代に顕現し、世界に夜をもたらしたとその程度の認識だ。


「はい。不動の太陽が照らすだけの世界にヨイは夜と雲を与えたと、そうして世界は今の巡りを得たとされています。すごい話ですよね?」

「……壮大で夢のある話だ。だが、それがどうして個人に関係するというんだ?」

「それはですね、その夜は永遠のものではないからです。夜には限りがあり、このまま放置すればやがて尽きてしまう、そう語り継がれています」


 夜が永遠のものではない……? どういうことだ? 彼女は何を言っているんだ?


「……何を馬鹿なことを。空から夜が消えるなど、ありえるわけがないだろう」

「夜入りが遅く、そして夜明けが早い。そのような感覚を覚えたことはないですか?」

「……確かにそのような実感はある。だがそれはあくまで俺の錯覚では?」

「いいえ、間違いではありません。そのズレは予兆の一つなのです。そう、わたしのこの黒い髪と同じように」


 ヘルナ殿下は俺の言葉を肯定、補足しながら自らの黒い髪を優しく撫でる。

 その髪の色と夜云々に関係があるというのか。髪の色など、何処まで行こうが髪の色でしかないだろうに。


「サザンカエルの血を継ぎながら黒髪と闇色の瞳を持つ者、その身に星の痕を刻み夜継やつぎを為すための使命を担う子なり。星の大陸に眠る五つの祭壇を巡った後、天に紛れる夜の間まで至り紡ぐべし。これが我らサザンカエルが語り継ぐ伝承の最後です」

「……その役割を担ったのが君だと? 先ほど見せられた痣こそが、星の痕であると?」

「はい。だからわたしは旅に出ました。幼少の頃から剣と魔法を学び、五つの祭壇を巡り一族の役割を完遂するために」


 ヘルナ殿下はその闇色の瞳を真っ直ぐこちらを向けながら、確固たる意志を込めてそう言い切る。

 先ほど彼女が服を捲り見せてきた、臍の下に刻まれた星の形の痣。

 あれはそういうものだったのか。……真面目な話すぎて、ちょっとドキドキしてしまった自分が恥ずかしいな。 

 

 しかしなるほど。ここまでの話、突拍子もないくせに不思議と嘘だとは思えない自分がいる。

 話しているのがこの少女だからか。この娘の瞳には揺らぎがなく、人を欺こうとする意志が微塵にも感じられない。その上でこうも未知に溢れた場所に連れてこられてしまえば、むやみやたらと疑う方が間違いだと思えてしまう。

 ……もしもこれが全て仕込みで、曇りなき心で俺に誤った知識を植え付けようとしているのなら大したものだと逆に賞賛してしまうな。そうだとしたら、豚よりも純粋だ。ぶふっ。


「……なるほどな。あまりに絵空事で、信憑性も低い。けれど嘘はないと、そう判断せざるを得ないか」

「……信じるんですね。自分で言うのもあれですけど、ちょーっと眉唾物じゃありません?」

「まあ確かにな。……ぶふっ、他ならぬこの場所があってはな。疑うとすれば、君がヘルナ殿下を偽っている大嘘吐きかどうかだろうよ」

「あ、はははっ……。髪やら瞳の色は偽っていますからね。王城でも一握りしか知らないことですよ」


 ちょっとだけ照れくさそうに話すヘルナ殿下。

 ……まあ別に構わないのだが、そんな重要な秘密を俺なんぞに話していいのか。まあ王家が内々で紡いできた歴史を聞いている時点で今更な気もするな。


「少し離れてください。これより、儀式を開始します」

「……? ああ……」


 彼女の言葉に従い、俺は数歩下がり成り行きを見守る。

 一応、いつ何が起きてもいいように剣へと手を掛けつつ。されど今から起こる何かを一時とて見逃さぬよう、しっかりと目の前を見据えながら。


「ヨイの眷属たる高貴なる獣、サザンカエルの残滓よ。我は星痕を担う者、彼方の約束を果たす者なり。どうか夜継を資格を与えたもう」

「……これはっ!」


 刹那、蛙に刻まれた印から紅く眩い光が溢れ出し、思わず片方の手で目を覆ってしまう。

 まるで少女の言葉に呼応するかのように発されたそれは、蛙から離れ空へと漂い、そしてヘルナ殿下の腹──先ほど見せてもらった、星の痣のあった位置に吸い込まれ、そして何事もなかったかのように消え去った。

 

「それが、儀式というやつか」

「……ふうっ。これで晴れて第一の夜継は完了です。どうでしたか?」

「……何というか、すごい機会に立ち会ったなと。こんな経験、一介の冒険者が体験するなど誰が想像したことか」

「ふふっ、そうですよね。だってわたしが、一番緊張して心臓バックバクしてますからっ」


 ヘルナ殿下は柔らかな笑みを浮かべた後、足が力を失ってしまったかのようにその場に尻餅をついてしまう。

 直ぐさま駆け寄り手を差し伸べると、ヘルナ殿下は照れくさそうに苦笑いながら俺の手を取って立ち上がる。


「これで一つ。あと四つで、わたしも役割を果たせる」

「……四つ、それも世界全土か。陳腐な言葉でしか言い表せないのだが、大変な道のりだな」

「ふふっ、そうですね。あまりに果てしなく、けれど頑張ろうって気になれます」


 俺の手を放し、しっかりと自分の足で立ち、俺に向かってそう言ってくるヘルナ殿下。

 ……強いなこの娘は。少なくとも、俺がそのような使命を担えばそんな風に笑えないだろう。

 だからこそ、彼女のこれから歩む過酷で険しい旅路を思えば、如何に俺とて胸が痛くなってしまう。

 今回はたまたま俺がいたから守れたが、今後はそうとは限らない。ましてや次からは自国ではなく余所の国、たった一人ではあまりに寂しく辛い道のりになるはずだ。……んっ?

 

「……そういえば、お付きの騎士とかはいないのか? 流石に王女を一人で旅立たせたりはしないだろう?」

「あー……えっとー……振り切っちゃったんですよねー……それが」

「……はっ?」


 ふと湧いた俺の疑問を受け、ヘルナ殿下は誤魔化すように顔を逸らしてしまう。

 ……ふむ。俺も豚とはいえ耳は悪くとは自負しているのだが。もしや聞き間違いだろうか?


「……流石に蛮行を通り越した愚行だと思うのだが、どういうつもりだ?」

「し、仕方ないじゃないですかっ! あの人堅苦し……けふんけふんっ! 前の町に滞在していた時、捜していた冒険者の方──あなたの噂を聞いてしまったのですからっ! わたしは悪くありませんっ!」


 つい敬いすら忘れて彼女を問うてしまえば、ヘルナ殿下は何故か俺を指差し反論してくる。

 堅苦しいか。……なるほどな。酒や買い物の類で妙に浮かれていたのは、そういうわけだったか。

 

「半年前からずっと捜していたあなた! 美しい剣筋で魔獣からわたしを助けてくれたふくよかな冒険者! 捜索願まで出していたというのに、影も形も掴めなかったあなたをっ!」

「……そ、そうか。……あれ俺だったのか」

「仕方ないんです! あのときの記憶はあんまりあれで、そんな朧気な記憶を顔を頼りに描いたのでっ!」


 顔を赤く染め、捲し立てるように段々と早口になっていくヘルナ殿下。

 そ、そんなことを言われても困る。太いだけが共通点のあれは、どうみても俺ではなかった。

 いやそんなことはどうでもいい。どのみちあの捜し方では名乗り出る気にはならなかった。そしてそもそも、それはお付きの者を置いてくる理由にならないだろう。


「……何故、俺を捜していたんだ。助けたことへの礼であれば、あのとき断って終わったはず──」

「違いますっ! ……いやそれもあるんですけどぉ!」


 ……ふむ。では、どういう理由であれば俺なんぞを国を動かしてまで捜すというのだろうか。

 

「……依頼をしたかったんです。わたしの旅路には、他ならぬあなたに付き添ってほしいと」

「……俺が?」

「はい。わたしの中で、最も強いと思っている剣士であるあなたに。旅に慣れた、信頼に足る冒険者に」


 揺らぐこともなく、言い淀むこともなくそう断言したヘルナ殿下。

 随分と大きな期待を持たれたことだ。一度命を救ったことで、俺を大きく見てしまっているのか。


「……それは買い被りすぎだ。俺とて多少は腕に自信はあるが、王城の聖騎士……特に懐刀として知られる三人の聖騎士と比べられては劣るだろうに」

「そんなことありません。少なくとも、わたしは初めて見ました。あんなにも研ぎ澄まされた剣筋を。一撃であの太く堅かった、あの牛の魔獣の首を断ち切るほどの膂力を」


 ヘルナ殿下は褒める。こちらが目を逸らしてしまいたくなるほど、真っ直ぐに。

 そこまで賞賛されると嬉しくはある。というか照れてしまう。

 剣を、そして力を褒められるというのは冒険者にとって誉れ。特にこのたくましい体以外に誇る部分のない俺とっては何よりの讃辞だからな。……ぶふっ。

 

「再会してからこれまでの間を共にし、わたしの気持ちは間違っていなかったと再確認しました。あなたであれば、わたしの旅を成功

「こちらを探るような視線の真意はそれか。……なるほど、であれば無理にでも付いてくるか」

「す、すいません。大分記憶と違う……ふくよかなお顔だったので、つい……」


 ぺこぺこと頭を下げようとしたヘルナ殿下を慌てて止めつつ、自らの内で妙に納得する。

 なるほど、こちらを窺うような視線が多かったのはそういうわけだったか。理由を知ってしまえばどうにもしっくりとくるものだ。

 まああんな人相書きのとおりを思い描いていたのなら、再会を果たした俺はさぞ豚野郎であっただろうな。


「……いかがでしょう。旅を終えた後、報酬は相応に出すと約束します。全てが終わった後であれば、わたしの身を好きにしてくれても構いません。だからどうか、どうか──」

「それ以上はいけない。王女様が己を差し出してしまうなどあってはならないことだ」


 震える声で頭を下げ、祈るように頼んでくるヘルナ殿下。

 不敬だとその身で理解しながらも、それでもと王女様の言葉を遮る。

 貴女は王族なのだ。それほどの覚悟があるのは結構だが、自らを貶めるような言動は慎むべきだ。

 だがその覚悟、そして俺への期待を確かに見せてもらった。

 ならば答えは決まっていよう。それを答えられずして、人も豚も男を名乗れやしないだろうさ。


「……ぶふっ、そう身構えずともいいさ。俺は断る気などないからな」

「やっぱ駄目ですかね……えっ?」

「事情を知りながら王女様を、年若い少女を一人で世界に放り出すわけにはいかない。……それにいい機会だ。俺も世界を巡ってみたいとは思っていた。この出会いはきっと、君と共に世界を巡れと神からお達しなのだろう」


 俺の言葉と思いに決して嘘などない。彼女に同情したから付いていくのではない。

 いつか、世界を巡るのは冒険者を始めた頃から……いや、父や母にも話したことのある幼少期からの夢だった。

 もっと力を付け、知識を蓄え、旅立つのはその時でいいと考えていた。

 けれど思ってしまったのだ。こんな自分より一回り幼い少女がそれを為そうとしているのに、俺の足踏みは言い訳にしかなっていないのではと。

 だからこれは俺自身の選択だ。この胸の内はどれほど複雑であろうと、それだけは紛れもない真実だ。


「では改めて、ヘルナ殿下。……いや、ヘルナ殿。その依頼、このピグスめが承った。全身全霊を掛けて、君の旅の終わりまで剣となり足となることを誓おう」

「……あの、大変嬉しいんですがもうちょっと親しく……こう、なかまーって感じに出来ません?」

「……ぶふっ、了承した。ではヘルナ、良き旅にしよう。どうぞこの豚めを存分に頼ってくれ」


 膝を突くことはなく、互いに伸ばした手を結び、笑みを向け合って誓いを立てる。

 彼女の剣となる騎士ではなく、肩を並べる冒険者であれば、最早殿下と敬称など付けて距離を置きたくはない。

 それにこれは俺なりの敬意だ。壮大な旅を始める一人の旅人の意を汲んでやられず、何が仲間だというのだ。もちろん、彼女が王女として振る舞う場では切り替えるがな。


「しかし、君に振り切られた騎士には同情するよ。王女に逃げられたとあれば、どう申し開こうと極刑は免れないだろう」

「……い、一応わたしが帰したなどの旨を記した書状を持たせてはいるのですが……」

「それでもだ。きっと城へは戻れまい。君がどのような言を残そうと、騎士の失態に変わりはない」

「で、ですよねー……どうしよう」


 手を放し、露骨に顔をしかめて悩み出すヘルナ。

 そんな彼女の普通の少女らしき姿に軽く微笑みつつ、俺は手を叩き甲高い音を響かせる。


「さて、それは街に戻ってから考えるとしよう。……しかし、この遺跡からはどうやって出ればいいんだ?」

「ああ、それはですね。ちゃんと伝承に記されてあってー……確か眷属の名残を三回右に捻ると……あっ!」


 数秒考えて何かを思い出したのか、ヘルナはぽんと手のひらに拳を打ち、それから紅い蛙の像を適当に触り始める。

 先ほどまでの王族らしい風格や佇まいなどどこへやら、端から見れば遺跡荒らしのようだ。

 きっとその蛙……神の眷属の残滓と呼ばれた御方も、何とも言えない気持ちになっているはずだ──。


「あっ」

「あっ」


 ヘルナを後方で見守っていると、どこかに触れたのかガタンと音を鳴る。

 そこまではよかった。直後、今の今まで足裏を付け立っていたはずの床が消え、俺達の身が再び空中へと投げ出されてしまうまでは。 

 

 遺跡の灯りはあっという間に遠ざかり、再び落下する俺とヘルナ。

 今度は彼女を支えることは出来ず。このまままた、長い長い落下を続けるのかと思い始めた時だった。突如として、俺達を吹き飛ばさんと真横を強風が吹き抜けたのは。

 風に吹き飛ばされ、真横の壁に叩き付けられると思い拳を振り抜き障害を砕こうとした。

 だがしかし、その拳が壁をぶつかることはなく、あたかも壁などないかのように全身が通り抜け、そして視界は一気に輝きで覆われる。


「ふんっ」

「ふげっ」


 風が緩み、そのまま転がる玉が如く地面へと着地して、目を光に慣らしつつすぐ周囲を確認する。

 着地に失敗して情けない声を上げるヘルナ。そして空から差す眩い光に、周辺に広がる紅い大地。そして最後に観たよりも遙かに大きなグルングルの街並み。

 ……なるほど、外に出てきたのか。しかも地肌の色的に中腹より下、どうやら安全地帯にまで戻ってきたらしい。下山の手間を省いてくれると、中々優しい王家の財産なことだ。

 

「まったく、最後まで刺激的な冒険をさせてもらったよ。……ほら、立てるか?」

「あーはい。ありがとうございます。いやーすごかったですね……」

 

 ヘルナは俺の手を掴み、「よっこいせ」と可愛らしく口に出しながら立ち上がる。


「あっ、街が大分近い! まあそれはそれは落ちたので当然ですけど、結構降りてきたんですね!」

「……あれが正式な出口なのか? そうであれば、神話の時代に畏怖の念を抱かずにはいられないのだが」

「あーいえ、あれは非常用のらしくて。伝承を思い出していけるかなーと思ったら出来ちゃって……てへっ」

「……はあっ。どうやら俺は、随分と破天荒な王女様の依頼を受けてしまったらしいな」


 パタパタと外套から土を叩きながら、目に入った街の大きさに歓喜を露わにするヘルナ。

 まあ彼女としても、俺に抱かれながら亜竜の住処を経由しての下山は嫌だったのだろう。

 実は走り抜けるのは登るより下る方が辛く、足腰にきたり調整が難しかったりするので俺としても助かったと思わなくはない。豚が如く、一人で転がり落ちるのなら別だがな。

 

「さて帰ろう。だが気は抜くな? 山を下りるまでが今回のぼうけ……ヘルナっ!!」

「え、あ、はい!」


 ともあれ、一段落に変わりはない。亜竜は降りてこないだろうし、死地を抜けたのは事実。

 だからなるべく緩やかな下山にしようとヘルナに声を掛けた──その瞬間だった。

 背後からの濃密な殺意。唐突に、突如として現れた黒い気配にすぐさま体が動き、ヘルナを抱き寄せ空へと跳ねる。


「あ、ありがとうございます……」

「気にするな。それよりも俺の後ろへ。決して気を抜くなよ」

 

 素早く着地し、ヘルナを自らの後ろに下げながら剣を抜く。

 空を舞う最中、ぼんやりと確認した敵に改めて目を向け、そしてその脅威に剣を握る力を強める。

 四足の、この登山では見慣れた獣。鱗はより光沢を帯び、食欲ではなく殺意を滲ませ、全身からこの山が発するよりも高密度な魔力を発している。

 けれどそれはあまりに歪。進化でもなく、変化でもなく、強化でもなく、暴走ですらなく、変質。

 俺は知っている。その現象の答えを。そしてそれが、

  

「なっ、あれって……」

「ああ、亜竜だ。それも魔獣化している。……厄介な」


 震えるヘルナを守るべく、鋭い視線で魔獣と化した亜竜を見据えながら剣を構える。

 敵は魔獣化した亜竜。中腹より降りてくることのない獣が堕ち、変わり果てて俺達を狙うけだもの。……やれやれ、数日のみで二回も魔獣と出くわすとは。世界も豚を食らうべくよく働くな、ぶふっ。

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