豚、飛べずとも跳べる

 六渡の突撃と休憩を経て、それからまた歩くことしばらく。

 失われることのない白い雲の壁を一つ越え、如何な俺とて流石に疲労を帯び始めた頃、再び山の気配と色が変化していく。


「随分と減りましたね、亜竜」

「ああ。もう頂上付近は生息域ではないのかもな」


 空は澄み渡った青に充ち、下を見れば随分と小さくなったグルングルの街。

 最早人の名残は微塵もないほど高く、体感だがあと一息だと思える辺りまで登っているとは思う。

 今現在、俺はヘルナを担いでいない。正しくは、抱える必要がないと言うべきか。

 中腹を抜けた辺りから一気に亜竜の数が減った。それは感覚ではなく、紛れもない事実。

 まるで雲の壁を境に、この上は自分達の領域ではないと侵入者へ知らしめるかのよう。単純に高度の問題か、或いはそれ以上の存在が住み着いているのか──。


「ピグスさん?」

「ん、気にするな。豚も人も考えごとはするものだ」


 少し深い思考に陥ろうとした俺を、ヘルナの声が我に返らせる。

 情けない。気を抜くなと言ったのは俺なのに、こんな場所で物思いに耽ろうとしてしまうとは。

 思考も大事だが、それで周囲を見落としたら元も子もない。豚も人も、転げ落ちるは一瞬だ。

 それにしても、下とは雰囲気がまるで違う。転がる石に地肌で輝く鉱石、その一つでも売ればしばらくは裕福な暮らしが出来るであろう、そんな風にこの肉の裏に潜む欲を刺激してならない。

 まさにお伽噺に出てくる秘境。紅い山の竜の巣の先にあるのは、まさしく宝箱だったというわけだ。


「それでヘルナ殿。頂きまでもう少しと言ったところだが、何が待ち受けているのかな?」

「うーん。あるのなら、絶対分かるらしいんですけど……あっ! あれですよあれっ! 多分!」


 そうして頂上へと、大きな声でヘルナが指差したそれに俺も思わず口を開けてしまう。

 頂上の平地。まるでテーブルのように平らな山の最高地点の中央に空いた、大きな大きな穴。

 先は見えず。熱も冷もなくただ闇が広がるだけ。俺の丸く太い体は元より、この山で見た大きな亜竜ですら支えることなく落ちてしまえるほどの穴だった。


「……穴?」

「そうです! 穴です! 一つは竜に染まった紅き山、自らの勇と共に頂きから落ちるべし。まさにこれれ! この先に、わたしが求めるものがあるはず……!!」


 困惑する俺を置き去りに、歓喜で顔を満たしながら穴を覗き込むヘルナ。

 その笑顔は宝に魅入られた愚者のように狂気的で、夢を叶えた子供のように純粋で、だからこそ冷静であらんとする俺の理解が及んでくれない。

 ……いや、それはそうだろう。命懸けの護衛の先にあったのがこんな大穴で、それが目的だと言われてもちょっと納得出来ないのは当然だ。


「……ごほん、それでヘルナ殿。この何もない、ただ大きいだけの穴にどんな用があったんだ?」

「はい。降ります」

「……はい?」

「降ります」


 聞き間違いかと思った俺の思考を切り捨てるかのように、二度も降りると断言したヘルナ。

 何言ってるんだこの娘は。そんなこと、出来るわけがない。

 見回しても穴の内部に階段などないし、俺達には鳥や竜のような翼などない。降りる方法などあるわけが──。


「まさか、何かの魔法で降りるのか? それともそういう魔術具が……?」

「ないですよ、そんなの。そんなこと出来るのは神様か伝説の賢者様だけですよ」


 何かしらの案を持っているのだろうと、そう思い尋ねた俺をヘルナはあっさりと否定してくる。

 分からない。理解出来ない。何故そんなにも、この少女はけろりとしているのか。

 人も豚も等しく飛べない。落ちるのみだというのは、万物不変の理ではあり覆しようのない絶対のはずだ。


「正気か? 自殺を手伝うために、この山を登ったわけではないぞ?」

「?? 当然です。わたしは生きます。そして果たさねばならない。それがわたしの生まれた意味だから」

「なにを、言って……」


 だがヘルナに、黄金髪の少女には死を迎えようとする意志は一切なく。

 むしろその逆。瞳にはこれ以上なく生気に溢れ、魂は自らの使命を果たさんと煌めいている。

 だからこそ、余計に分からない。それほど生きる意志に充ちた少女が、何故この何もない大穴へ飛び降りようとしているのか。


 ──そしてこの俺もまた、何故どうしようもないほど心臓を弾ませてしまっているのか。


「一緒に来ては……すいません、変なこと言いそうでした」

「ここまで送ってくださってありがとうございました。ここまでのご恩、決して忘れません!」


 そんな俺の意志を汲み取ってしまったのか、それ以上の言葉を紡ぐことはなく。

 ヘルナはこちらへ綺麗に一礼した後、そして大穴を見据え、ぴょんぴょんとその場で軽く跳ねる。

 目を離せば、そうでなくともすぐに跳んでしまいそうな少女。やはり怖いのか、握る拳も足も震えを発してしまっている。

 直感で悟る。この場面こそが分水嶺、ピグスという男の人生の分かれ目。ここでの選択こそ、俺という一匹の豚が歩く人生の岐路。

 

『飛びたいと僅かにでも思えたのなら、躊躇せずに飛んでしまうんだね。ひーっひっひひっ!』


 ばあの言葉が脳を過ぎる。そしてその瞬間、俺がするべき選択に納得する。

 ここがその飛び降りるべき場面かは定かではない。ばあの言葉なんて、所詮は忠告に過ぎない。

 

 当たり前のように少女を止めるか。それとも彼女の勇姿を、愚行を見過ごすか。

 その問いに対し冒険者として、生きとし生けるものとして最低の選択。命を捨てるだけの愚行。

 俺は優しき父と母の子として、怯えながらも勇気を振り絞る少女だけで飛び降りるのを、黙って見過ごすわけにはいかない。

 何より俺はヘルナを──その眼差しを持つ少女を信じてみたい。一人の冒険者として、男として、そして豚として伝説に懸ける少女と共にありたいと思ってしまったのだ。


 ……ぶふっ。故に取るべき道は一つ。俺も所詮は冒険者、欲に負けた豚野郎ということか。

 

「……失礼お嬢さん。もうしばらく、この豚めにお付き合いを」

「えっ……ピグスさん!?」

少女レディ一人を行かせるわけにはいかないさ。何より、まだ報酬を貰っていないからな」


 飛ぶ寸前であったヘルナの肩に手を添え、そしてしっかりと抱き上げてから穴を見下ろす。

 少女の琥珀色の瞳が揺れる。やはり、一人で飛び込むのは怖いだろう。当然だ、俺だって止めたいくらいには怖い。

  

 大きな穴。どこまで続いてるかも定かではない、見ているだけで吸い込まれそうな純黒でしかない闇。

 一歩進めば間違いなく命はない。どれほどの馬鹿であろうと、そうしようとは思わない愚行。

 

 ──けれど、だからこそ。どうしようもないほど、猛る気持ちも確かに存在するのだ。


 所詮は俺も冒険者。未知を追い、荒事に身を染めながら旅するだけの流浪人。

 そこに謎があるのなら。穴の先に何かがあると言うのなら、知りたくなるのが欲というもの。

 さあ行こう。命なんて捨てて、共に奈落へと向かおう。どうしようもない愚行でも、一人じゃなければ怖くはない。

 例え死のうが紅い山から飛び降りた豚など、どれほど過去を振り返ろうと俺だけだろうさ。いつかこの山が拓かれた時、僅かに残る紅い染みこそが俺という豚の残せた


 これ以上ないほど地面を強く蹴り、竜の背にでも乗ろうとするくらいに景気よく。

 大穴という死へ飛び込んだ俺は少女を放さないよう、少しでも負担を減らそうと気をつけながらひたすらに落下していく。


 小手先の強化などに意味はなく。それでどうにかなるのであれば、飛び込む際に悩むこともなく。

 亜竜の群れを抜けるよりも素早い落下に意識を飛ばすことなく、いつまでも続く風切音に身を捧げるだけ。


 ふと、今までの人生が目まぐるしく脳裏に過ぎってしまう。

 村での幼少期。村を出て、冒険者になってからのこと。俺が最も脳に焼き付けた、村を呑まんと大口を開けた蛇との決戦のこと。

 ……ぶふっ。死ぬ間際の人間は一生を刹那で振り返ると聞くが、まさかたった二十年でそれを味わうことになろうとは。

 

 いつまでもいつまでも。

 このまま終わりはなく、延々と永遠に落ち続けてしまうのではないかと思ったその瞬間。

 ふと落ちる速度が減衰していく。まるで自らの背に翼でも宿ったかのように、落下は勢いを失い落下ではなくなっていく。

 そしてやがて、地に足は付く。叩き付けられるのではなく、こつりと何気なく歩を進めたときのように。


「……ぶふっ、生きてる。ぶふっ、ぶふふっ!」


 数秒の後、足裏に感じる固さが幻想でないと完全に納得してようやく追いつく歓喜。

 生存した。生き残った! 理屈はまるで理解出来ないが、少女を信じるという賭けに俺は勝った!

 なんだこの爽快感はっ! なんだこの達成感と充実はっ!

 こんなの今まで感じた事がない! これが! これこそがっ! 冒険というものの真髄なのかっ!!

 

「あ、あの……そろそろ下ろしてもらえると……」

「あ、ああ。すまない」


 ただ笑い、心の中で盛り上がっていた己を窘めるように届いたヘルナの言葉。

 その声ですぐに冷静さを取り戻した俺は、慌てて謝罪しながらゆっくりとヘルナを下ろしていく。 

 直後、少女の足が地面へとついたその瞬間だった。

 暗闇でしかなかったその場所が意志を持つかの如く、唐突に連続して火を灯し始めたのは。


「なんだここは……遺跡か?」

「……着いた。ここがサザンカエルが、女神が遺した夜継やつぎの祭壇」


 円形の空間の端に置かれた、それはそれは大きな蛙の象。その大口の中に灯された光。

 そして俺らを囲むその燭台の像がなく、唯一空いた正面に置かれた小さい、この山に負けずな紅色の蛙の像。

 冒険者としての勘が囁いてくる。この場所が特別な何かであるのなら、きっとそれはあれなのだと。


「待て、待つんだ。こんな場所で闇雲に動いては──」

「大丈夫です。ここはわたしに牙を剥かない。そういう場所なんです、ここは」


 冒険の高揚の中でも警戒を心がけながら、いつでも抜けるよう腰の剣に手を添える。

 だがそんな俺の制止を聞かず、ヘルナは真っ直ぐと、その小さな紅色の蛙の像を見据えながら歩いていく。

 こつこつと、黄金髪の少女の足音が空間内に響き渡る。

 床や壁から罠が作動する気配はまるでなく、むしろヘルナという客を歓迎するかのよう。

 最早何を疑問に思っていいのか、それすら曖昧になるほどたくさんの疑問を抱えつつも、俺はヘルナの背を付いていき、輝かしい紅色の蛙の前へと辿り着く。


「……どういうことだ。君はここを知っているのか? ここが紛れもなく目的の場所、そうなのか?」

「はい。ここがわたしの目指した場所。わたしの家が遺した伝承に綴られた巡礼地。その一つです」

「……巡礼地」

 

 ヘルナは紅色の蛙の額を優しく撫でながら、ようやく吐き出せた俺の言葉を肯定する。

 そしてヘルナを細い人差し指で額の紋章を指差したので、俺はそれを覗き込む。

 二つ重なった星、そしてその中央にはこの像と同じ蛙。どこかで見たことがある気がしてならない、俺はこれを見たことある気が──。


「これは我が国の、サザンカエルが祀る国章。そして幾年も前に世界を繋いだある神の眷属、その姿」

「サザンカエルの、紋章……?」

「はい。王家がかの存在に畏怖と敬意を忘れぬために、王家の証として残すと定めたもの」


 ヘルナが告げた答えに、俺の頭が急速に納得を生み出す。

 そうだ。サザンカエルの国章。この国で生きて何度も何度も、当たり前のように見てきたその紋章じゃないか。

 どういうことだ。それが何故、こんな遺跡らしき場所に存在する? まるでサザンカエルの──。

 

「全てを話します。全てをお見せします。それがわたしを信じ、共に落ちてくれたあなたへの気持ち。そしてこの場所へ辿り着いた、あなたへの報酬だから」

「な、なにを……」


 そうしてヘルナは蛙の額から指を放し、黄金の髪を纏めていた髪留めを外し、そしてゆっくりと自らに魔力を巡らせていく。

 そして変わる。変わっていく。変化していく。

 ヘルナという少女を特徴づけていた黄金の髪と琥珀の瞳のどちらもが、その艶を失わずに黒へと。


 艶やかな黒髪、闇色の瞳。……そうか、そういうことだったのか。やっと思い出した。

 道理で見覚えがないはずだ。道理で分からないはずだ。

 彼女が俺と出会ったのは、こちらの黒い姿の方だったのだから。そしてもう一回り、その面影は幼かったのだから。

 あれは確か、一年ほど前の話。この街に辿り着く途中で遭遇した、大きな牛の魔獣。

 その無惨にも散っていた騎士の屍の中で唯一間に合い助け、互いの名前すら聞かずに街まで送った少女がいた。


 その少女こそが、目の前にいるヘルナという少女。……ようやく、記憶が重なったぞ。


「君は、あの時の……」

「わたしの名はヘルナ。ヘルナ・サザンカエル。お察しのとおり、サザンカエルの第三王女。星痕を授かり、夜を紡ぐという使命と共に生を受けた女です」


 そして少女は服の裾を持ち上げ、自らの名を口にする。

 臍と腰の中間にて淡く光りながら存在を示す、蛙の額に描かれたものと同じ星の紋章を晒しながら。

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