5

外に出た瞬間、香ばしい匂いが一面に漂っている。パイのような、焼き肉のような匂いが、流風の体に染み込んでいく。

似たような匂い。あの老婆が、ほぼ毎日作るパイと、おんなじ匂い。

どこからこんな匂いが来るのかと、辺りを見渡せば、ここはどうやら飲食店通りのようだ。さっきの居酒屋と同じように、石で作られたものもあれば、ダークウッドの大きな柱が目立つような店もある。どこもかしこも立て看板を店頭に置いて、あるいはエプロン姿の店員がこぞって客引きをしていた。店と店との間にある街灯は、暗がり進むこの通りをほのかに照らしている。

大きく息を吸って、この美味しそうな空気を飲み込んだ。いつものようにそうすれば、いくらか腹は満たされた。

「この匂い、気になる?」

ふわりと舞ったその銀色の髪から覗く瞳が、街頭に照らされて輝いていた。

小さく頷くと、ベラはふっと微笑んだ。

「たぶん、シェパーズパイね。この通りに美味しいパイのお店があったと思うから。」

「シェパーズパイ?」

「ええ。お肉の上にポテトを詰めて焼いたものよ。また今度連れてってあげる。」

そう言って、また背中を向けた。まだ店通りは続いている。徐々に暗がりに染まっていく中、「匂い」という単語に引っかかって口を開けた。

「あの、姫様。」

「ベラでいいわ。」

「ベラ。こんな堂々と僕いててもいいのかな。」

よくよく考えてみれば、ここは神の楽園「ロミシェランナ」だ。

そして、どこかでベラが言っていた。「人間は人畜同然に働かせられる」と。

さらに言えば、さっき出くわしたあの鎧たちは、流風から「人間」の匂いがする、と言い、献上だのなんだの言い張っていた。

どう考えても、他の神様とやらにでくわした矢先には、さっきのような尋問と引き渡しが待っているに違いない。

「ほら、匂いがしたって鎧の奴らが言ってて。それなのにこんなにわかりやすく歩いてていいのかなぁって。」

あくまで仮面を被った状態で聞く。彼女は特に振り返りもしなかった。

「大丈夫よ。狙われることもないし、隠れる必要もないのだから。」

「なんでそんな確信できるの?」

「私と歩いている時点で、周りから見ればあなたは私の奴隷ということになるからよ。」

ひどいことはしないから大丈夫よ、と言って笑うベラに、緊張の糸がほぐれた。

確かに他の神のものに手をだしたりはしないだろう。ゼウスの種族であるベラならなおさらだ。

ほっと一息つきながら、そのドレス姿を追いかけて声をかける。

「あとさ、今どこに向かってるの?」

一日中歩きっぱなしでそろそろ指が痛くなってきたローファーで、石畳を踏みしめて歩く。

ベラは、「ああ。」と言葉を漏らして、今度は振り返らず、ゆっくりとペースを遅くしては隣を歩き始めた。

「この後のこと、話してなかったわね。今は、秘密基地に向かっているの。今日からそこが拠点になるわね。」

にこやかに話してくれるが、全くもって意味がわからず、流風は笑顔を貼り付けたまま黙っていた。

さきほどの話から、ベラはこの国の姫であることはわかった。ならば、帰るべき場所は家である城ではないか、と思ったとき、横で歩いている彼女が流風を見つめていることに気づいた。眉毛をふと下げて、力無く笑っている。そして、乾いた笑いに混じって声が入った。

「私ちょうど今日家出したばかりでね。本当はもっと変装してひっそりと出ていくつもりだったんだけど、ちょっと、予定通りに行かなくて。だから、お城には帰れないの。」

どくりと、心臓が音を立てた。

まるで心を見透かしたかのように、流風が聴きたかった質問に答えていた。

これが、全知全能の神の能力というものなのだろうか、と思ったところで、ベラはふと立ち止まった。

「どうかした?」

立ち止まった先は、店通りに一つポツンと佇む、丸石でしきつまれたような建物だった。香ばしい匂いもせず、店頭にある看板もない。飲食店ではないなと思いながら、顔を上げれば、なかなかの高度まで建物は続いていた。建物の頂点付近の壁には、石で形取った何かのマークを貼り付けていて、実に不思議な形をした建物だ。

「ルカ。こっちよ。」

いつのまにか歩き始めていたベラが、手招きをして呼んでいる。ベラを追いかけ、建物の裏に回っていく。建物の裏側の狭い裏道は、背が高い雑草などが生い茂った無法地帯のような場所だった。

ベラは、ちょうどこの建物の裏側の壁を見つめていた。雑草をかきわけ、近くに寄っていく。

「ここに何があるっていうの?」

「まあまあ。ちょっとまっててね。」

わかりやすく口角が上がったベラは、丸石の壁に手を置いた。

ベラは迷うことなくその白い手を滑らせ、ふとなんの変哲もない丸石で手を止め、力強く押した。

「え。」

ボタンのように、簡単に壁へ食い込んだ丸石。流風はよくわからず、ただベラの手の動きを見つめていた。

右にずらし、また一個。次は左下にずらして一個。上にいって左にいってまた一つ。

そして最後、中央にある石を押すと、がしゃん、と地響きのような音が聞こえる。

「嘘だろ……」

思わず開いた口に手を当てるが、開いたのは口だけではない。さっきまで何の変哲もなかった石の壁が、ガタガタと音を立てては壁の内側へのめり込んでは消えていく。

あっという間に階段状になった石の壁に、流風はただ茫然と立ち尽くすしかなかった。

「ようこそ。私の秘密基地へ。」

早々と階段を下っては振り返るベラに、作り笑いをかえすことすらわすれていた。

壁にかけられたランタンを手に持ち、奥へ進む彼女の後を追いかける。

「ベラ。君がこの秘密基地を作ったの?」

「いいえ、私の友達が作ったのよ。」

地響きがして扉が閉まる。本格的にランタンしか明かりはなく、ほのかにベラの後ろ姿が見えるだけだ。

「すごいでしょ、ここ。本人が言うには、そんな難しいことではないらしいけれど。」

前を歩くベラの、そのヒールのこつんという音が、反響して聞こえてくる。

暗がりの中、冷たい石の壁を頼りに下っていく。いくらど田舎に住んでいようと、現代人なのはかわらない。

こんな遺跡のような場所には踏み入ったことはまずなかった。

「着いたわ。」

かつん、とヒールを鳴らして立ち止まる。一つ上の段にいる流風は、彼女の手元に視線を向けた。

「ルカ、ここがあなたの第二の家よ。どうぞ、中に入ってみて。」

少し端に寄ったベラは、そう言って流風にその宝石のような瞳を向けている。

一つ下の段へ足を落とす。ベラがさきほど手にかけていた、錆びれたドアノブに手をかけた。

少し軋んだ音がして、扉から光が漏れ出す。

少し開けた空間。まさしく「秘密基地」と呼べるような場所が、そこに存在していた。

ライトウッドの床に、丸石を敷き詰めたような壁。流風が通っていた学校の教室の半分ほどの広さを持つ、横長な部屋だ。中央には、大きな切り株をそのまま植え付けたような机の横に、また断面でスパッと切られたような小さな丸太の椅子が二つほど置いてある。部屋の東側には、石造りのかまどと、台所、タルの形をした収納がいくつか並べられていて、逆の西側には、びっしりと書籍が詰められた背の高い本棚と、それに囲まれた小さな書斎机が整えられていた。そして、それぞれ西側、東側、北側に入り口と同じような木造の扉があった。

「ようこそ。私たちの秘密基地へ。」

後ろから続いて出てきたベラは、部屋の中央に躍り出て、にっこりと笑顔になった。

部屋は暑くも、寒くもない。特別な空調をしているのか、それとも地下だからなのかよくわからなかったが、元々流風が住んでいた、あの老婆の家と比べて格段に過ごしやすく、あのうるさいテレビの音もしない。なんだか力の抜ける家だ。

「こっちきて!」

「うあっ」

腕を引っ張られて向かうは、西側の扉の前。ベラが扉を開けると、この中央の部屋の4分の1ほどの広さの小さな部屋が現れる。段差のある床を踏めば、目の前には本棚と長机が揃えられていた。左側に顔を向ければ、収納箱のようなものがあり、その箱の前に、綺麗なシーツがかかったベッドが一つ、棚が一つ、置かれていた。

「ここがあなたの部屋よ。少し狭かったらごめんなさいね。」

申し訳なさそうに言っているが、当の流風は不満など持ち合わせてさえいなかった。

元々、埃くさい敷布団の上で寝ないといけず、アレルギーで咳が止まらなくなったあの冷房もない部屋で十五年間暮らしてたのだ。

静かに首を振っていると、また腕を引かれ、今度は北側の部屋を開け放つ。

「ここが、浴場よ。好きに使ってね。」

今度は壁床共に丸石でできていて、手前に編みかごが置かれている。そこまで広くはないけれど、奥に行けば、浴槽のような水溜もあり、隣には木の蓋がついた石の椅子のようなものもある。これはトイレだろうか、と思っていると、そのまた隣には大きなバケツに水が溜まっていた。ひとまずは、水回りにも困らなさそうだと一息つく。

すると、突然横にいたベラが大きく目と口を開けた。

「そういえば、東洋の方って『オフロブンカ』ってものがあるの?」

「うん。そうだよ。暖かいお湯に浸かって、体を癒すんだ。これもそのためじゃないの?」

浴槽のようなものの近くに行くと、ベラは、フルフルと首を横に振った。

「いいえ、この中に入って、このバケツで上から水をかけるの。お城では、召使たちが代わりにやってくれたりするのよ。」

さすがはお姫さま身分だけのことはある。

思い出せば、流風の住んでいた家のお風呂は窯式の古いもので、外から焚き付けなければ暖かくならないものだった。

あの老婆の入ってる時でさえ、小さい頃はよく外から焚き付けを手伝わされていた。

明らかに二十一世紀らしからぬ家だったものだと思うのと同時に、時代が違えど、この少女とはなかなかに身分が違うのだなと改めて実感する。

「さて、ルームツアーはこれで終わりね。」

大きな丸太の机を挟んで、向かいに座る。大きくのびをするベラを見つつ、出されたカップの持ち手に手をかける。

「それで、これからどうするの?」

流れるまま、言われるままについて来てしまったものの、まだこの世界に慣れていない身としては、この先が気になる。

カップに口をつけると、今度はベラが口を開いた。

「ああ、確かに、しっかり伝えきれてなかったものね。」

口からカップを離すと、ベラは眉毛をキリッとあげて、いつになく真剣な表情をしていた。

「悪魔族の大元を見つけて、封印する。それが、私の最終目標。」

「大元って、ボスみたいなのがいるってこと?」

「元々悪魔族は、私たち神と同じで、悪魔の血を引くものっていう意味で、悪魔の子孫を指す呼び名だったの。でも、今は悪魔族の特有の力によって、堕落した神や人間のことなどもそういうようになったわ。」

悪魔族の特有の力というのは、まだあまり解明できてはいないらしい。

でも、確実にわかるのは、堕落した神や人間には肩や首筋に模様が浮かび上がって、それがどんどんと体全身に広がって死に至るのだとか。

「その大元を見つけ出す。そのために、まずは戦力を集めなくちゃいけないのよ。」

そういえば、どこかで、「ギルドを作っている」と言っていたなと思い返していると、ベラは、東にある書斎机から、紙のようなものを取り出して持ってくる。

覗き込めば、何やら暗号のような文字が書いてあり、世界地図のようなものだった。

「これはロミシェランナの地図よ。ここが今いる王都で、他十一個文字が書いてあるところが、それぞれの聖地と呼ばれる領域よ。」

ベラが指を刺しているのは中央部分。滑らすように指でなぞるのは、その周辺に散らばった単語と、線で区切られた場所だった。

「大昔、悪魔族を封印したと言われている王女は、ギルドを作ってその勝利を得たと言われているの。この各聖地の領主たちによってね。」

剣士、魔法使い、僧侶、魔獣使い、などなど、さまざまな実力者が揃っていたという。

「だから、まずは仲間探しを始めるわ。」

急がば回れ、とことわざでもあるように、何事も準備は怠ってはならない。

大いにベラの計画に納得しながら、じゃあ、と言葉を加える。

「その仲間は、だいたい目星はついてるの?」

「まず、知り合いにお願いしようかなと思っているの。」

「知り合い、か。」

ベラの知り合いなら大丈夫、とふと生ぬるい考えが頭をよぎり、首を横に振った。

たとえ知り合いだとしても、彼らを信頼していい理由にはならない。ベラは国の王女で、権力者にあたる。それに漬け込んで仲間になろうなどと抜かす輩もいないとは限らない。最悪の場合、彼女の懐に入って殺そうとする輩もいる可能性はある。

この目で精査する必要がありそうだ、と考えに耽っていると、ベラは地図上に指を刺した。

「ええ。まずは、ここの聖地ね。そこに知り合いがいるから、そこに明日出向くわ。」

場所は、王都の少し東側に位置する場所だ。どうやら森の中にあるようだった。

「あのさ、これって、なんて読むの?」

「ああ、これは『ルナ』よ。ここの聖地の名前。ルカはロミ語も覚えなくちゃね。」

「ロミ語?じゃあ今、僕は元の世界の言葉で話してるのになんで通じてるの?」

確かに最初から違和感はあった。異国情緒を漂わせてくる者たちから日本語が出てくるとは、映画の吹き替え版を見ているようで、違和感しかない。

それでもこれでいいかと飲み込んでいた矢先、書き言葉では新しい言語とはよくわからないものだった。

「あ、それはその……ちょっと手を加えたというか。」

バツが悪そうに目線を外す。

なんだか裏がありそうな予感に、流風は逸らされた目線を追いかけながら、にっこりと微笑んだ。

「へぇ。手を加えたって、随分大層なことをしたんですね〜」

「た、大層なことじゃないわよ。出会った時、倒れてたでしょう?その時人間だって気づいて、神聖力でルカの神経をいじっただけだから。」

「し、神経?」

ぞわぞわっと首筋に冷たい何かが襲う。

何か改変されたのかと恐ろしくなるものの、当人のベラは少し焦りながらもなだめる。

「ルカが想像しているようなものじゃないから。神が雇った人間によくする方法なの。コミュニケーションがしっかり取れるようにできるように、ただ話聞きが通じるようになっただけだから安心して。」

安心できるか、とツッコミを入れたいが、こらえていたあくびが出てきて言える空気でもなくなってしまった。

少し気恥ずかしく思っていると、ベラはぱん、と手を叩いて立ち上がった。

「まあ、今日は疲れてるだろうし、浴場に入って早く寝ましょう。今日城から持ってきた食料を準備しておくわね。」

そばにあったカップも回収され、立ち上がって手伝おうと声をかけるも、「大丈夫だから」と押されるように浴場に直行することになった。

ぱたん、と扉を閉める。今日はベラと共にずっといたからか、こうやって一人になれるのも久々な感覚だ。

扉にもたれて、息を吐く。いまだに、ここが現実だとは思えなかった。

もしかすると、明日の朝、目が覚めたらあの埃被った布団の上にいるのではないかと思っている自分もいる。

どうもあの少女といると、調子が狂うのだ。まあ、それも疲れのせいかと思いながら、もたれかかった扉から起き上がって、すっかり汚れたワイシャツのボタンを外す。

とりあえず今日は、この混乱し切った脳を休めることだけに集中しよう。

そう思い決めて、流風は軽く畳んだワイシャツを、黄金色の編みかごの中へと入れ込んだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る