2

不意に、焦げ臭い匂いがした。

絶えず流れる川の音。そよそよと心地のいい夏風の音。そして、焚き火のような、火花が飛び散る音。

「ん?」

声が漏れた。どうやら寝てしまったらしい。

まだ安定しない視界を無理やり明るくするために、目をこすりながら立ち上がる。

背中が痛い。岩で眠るのはやめとこうと思いながら、すっかり暗くなった空を見上げる。

あたり一面星空が広がっているかと思いきや、曇り空で広がっていた。星一つ見えない、今にも泣き出しそうな雲。つまんないな、と思い首を動かした時、流風はよくわからない物体を発見した。

空に、黒い靄が浮かんでいる。真っ暗な夜空でもわかるほどはっきりと。

いや、浮かんでいるというより、地面から黒い靄が出てきているようだ。

顔を上げるのをやめて、背後を確認するために振り返る。

「……え?」

河原の隣は、田畑が広がっていたはずだった。

急いで走って近づいていく。大気中、黒い靄だらけだ。

「……あは、あはは。」

乾いた笑いしか出なかった。

田畑が燃えている。燃えた田畑から、黒い煙が巻き起こり、大気に浮かんでいたわけだ。

しかし、ここでじっとしていることもできない。風向きからして、村の方へ炎は向かっている。裏山から行けば、村の様子はわかる。

田畑の道の途中に分岐ルートで裏山に行ける道があったはずだ。そこまでなら持ち堪えられるかもしれない。

ワイシャツの袖で鼻と口を覆って、田畑の中を突っ走る。

覆ったと言っても所詮その場しのぎに過ぎない。肺に間接的に入ってきて咳が止まらない。

クラクラする頭と意識をなんとか保って、山道への道へと走っていく。

ようやく、山道に入ったところで煙はおさまった。

「ごほごほっ、これくらいくれば、大丈夫か。」

一息ついて山道を登る。いつから燃え始めたかもわからない、村まで届いていないのかもわからないような状況なのに、不思議と冷静でいられた。

木々に囲まれた、特に整備されていない土道を踏み締めて歩く。フクロウの声が、どこからか聞こえてきた。

背の高い木を横切り、登ること数分。ようやく見晴らしのいい裏山の中部まできたところで、息を呑んだ。

この場所は、昔からよく村人の散歩ルートとして使われていたこともあり、空間が開けていて、ベンチなどもある、休憩所のような場所だ。そして、ここから村全体を一望できる展望台としての役割もあった。

柵が建てられた場所まで歩いていく。目の前に広がった景色は、真っ赤に染まっていた。

その真っ赤に染色された空気は、頭と脳を揺らして、そして記憶を掘り返してくる。

『そういえば、帰り道田んぼに火がついててさ。ちょっと様子でも見てこよーかなぁ』

数時間前の、自分が放った言葉だった。

なんの根拠も、証拠もない、ただの嘘。

その嘘がいま、目の前の真っ赤で塗りつぶされていく。消されていく。

「嘘が、本当になった……」

ただそれだけだ。

ぽつりと、手の甲に水滴が落ちる。それを機に、バケツをかぶったような雨が、突然降り頻る。

濁った雨。灰色の、焦げ臭くて、生臭い匂いのする、澱んだ雨だった。

目の前に広がる真っ赤に染まった景色が、徐々に剥がれ落ち、なくなっていく。最後には、真っ暗になっていた。

遠くから見えるのは、点々とした家らしきものと、黒焦げになった何か。

流風は、ただ呆然と、この光景を眺めていた。

おそらく、村の人は全滅だろう。もしかしたら一人二人逃れたかもしれないが、それでも確実に復興できる余地はない。

あの老婆だって、走れる足腰なんてしていない。おそらくあの場で、死んだのだろう。

現実味のない事実に、乾いた笑いが漏れる。

不思議と、涙も出なかった。悲しくもない。むしろ、ずっと虐げられてきた立場だ。今更なんの情が働くのだろう。

ただ、この世に「本物」があることへの、漠然とした虚無が、そこにあった。

「これが本物なら……俺って、何なんだろう。」

雨で濡れた前髪を払いのける気力も出なかった。

この世に「本物」などないと信じていた。しかし、今日、嘘が「本物」へと実現されてしまった。

この世に「本物」があることが、証明されてしまった。

じゃあ、自分は何なのだろう。「本物」の自分は、一体何なのだろう?

「わからない。」

つぶやいた言葉が、無力に地面へと落ちる。

本当は、村の人が死んで悲しいと思っているのだろうか。

本当は、嘘をつきたくないと思っていたのだろうか。

本当は、寂しいと感じていたのだろうか。

「……馬鹿らしい」

嘘に嘘を塗りまくった心は汚れまくって、何も見えやしなかった。

柵に手をかける。濡れていて、突き刺すように冷たい。

もしかしたら、自分が存在していたこと自体、嘘なのかもしれない。

足も柵に乗せて、飛び越える。柵の外、崖ぎりぎりに、流風は立っていた。

もしかしたら、生きること自体、無駄な嘘だったのかもしれない。

柵にかけた手をふっと離す。夜風が強く吹き付けた。

「さよなら、嘘の世界。」

空白の地面へと足を進め、飛び降りる。

視界が、途端に暗がりに包まれた。

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