策略のオオカミ少年
安曇桃花
第一章 オオカミ少年
1
「嘘つきだ。」
何度同じ言葉を聞いたのだろうか。
きっとこれからも、この言葉を聞き続けるのだろうと、
「何笑ってんだよ。お前のせいで、あの子に嫌われちまったじゃねえかよ!」
胸ぐらを勢いよく掴まれる。釣り上がった眉毛に瞳孔を真っ向に開いた同級生は、そう吐き捨てる。
でかい図体をしながら、震え上がっている。怒りが頂点に達しているらしい。
こうやって理性を失った人間は、ただの獣となる。えらく惨めで、可哀想な絵面だ。
「なんか言えよ。なあ!」
小さな校舎と校舎の間、その隙間の、ちょっとした路地裏のような場所。吹き抜けで、その横暴な声がこだましていく。
「僕のせいって、君が勝手に僕が言ったことを間に受けただけじゃん。僕は言ってないよ、告白しに行けだなんて。」
挑発をすれば、顔を真っ赤にして鼻息を荒くし出す。
しまいには、胸ぐらを掴んでいた手を強めては、もう片方の手は拳を作っていた。
「お前……いい加減にっ」
「やめなよ、鈴木。」
不意に聞こえた声に、殴る寸前だった拳がピタリと止まる。
声から察するに、たぶんアイツだなと流風は落胆する。胸ぐらを掴まれた状態で、首だけを回す。明るく日がさした中庭に、一人の青年が立っている。黒髪をさっぱりとセンターで分けた、見慣れた顔。
「水瀬!でもこいつがっ」
「手を出しても思惑通りだよ。そうだよね、流風?」
黙り込む鈴木は、もはや理性を取り戻してしまった人間だ。
これでは意味がない、と息をついて流風は胸ぐらに張り付くその太い手を剥がした。
「……水瀬くん、先生が呼んでたよ。」
にこっと笑顔になりながら、日向の方へ歩み寄る。ちょうどお昼時。太陽が焼けるくらい眩しい。
水瀬は同じように笑顔になって、こう言った。
「それもきっと嘘だろう?オオカミ少年くん。」
オオカミ少年。ホラ吹き。嘘つき。虚言癖。
ずっと、そう呼ばれ続けてきた。それに対して、別に悲しいとか嫌な気持ちは一切しない。
とうに自分の心など置いてきてしまった。なぜこんなことをしているのかも、何を求めているのかも、忘れてしまった。ただわかるのは、嘘を吐いたあとに胸の中で宿るほのかな優越感。
どうやら自分は、その微かな優越感を頼りに生きている、人外な存在らしい。
「あ、オオカミ少年じゃん、今度は何の嘘吐きにきたんだよー」
「どうせ、しょーもねー嘘だろ」
昔馴染みの水瀬とも昼休み以降、特に会わずに学校を去り、山を登って家に戻る。
田んぼに塗れたこの集落に戻れば、すぐ自動販売機前で嘲笑う中学生が空き缶を投げた。
「村の弾かれものだもんな、アイツ」
コロコロと、泥で汚れたローファーに缶が当たる。目も合わせず、流風はゲラゲラと笑う二人組の前を横切る。
コンクリートの上は、じわじわと体温を奪ってくる。首元から浮き出る汗は、ワイシャツの襟元を濡らしていく。
田んぼ通りを抜けて、新緑深い木々がサイドに出迎える住宅街へと足を進める。
本格的に蝉の鳴き声がうるさくなってきた時、ようやく、ボロ臭い家へと辿り着いた。
引き戸を押し開けて、石畳の玄関へ入る。
「ただいま。」
なんとなく言ってみた冗談に、返答する声はない。
ただいまなんて言える居場所なんてないことくらい分かっていた。
単純明快な事実に苦笑して、ローファーを履き捨て、古びた音のなる木造の家へと入る。
襖を引けば、四畳半の畳の部屋に、一人、腰を丸めた老婆がいた。
長年使い古したであろう深緑色の着物をきて、この暑い中、扇風機だけを動かして時代遅れの古型テレビを眺めている。
背後にいる流風のことなど空気のように扱って、ただ一人、茶菓子をつまんでいた。
「おばさん、僕今日テストで三十二点取ったんだ。」
吹き抜けのように繋がったキッチンに足を運び、麦茶を冷蔵庫から取り出しながら話しかける。
まるで独り言のように、老婆はテレビを見つめては口を開いた。
「そうかい。」
変わり映えしないしわしわの顔は、流風の方を向く気配もしない。
「今日鈴木くんって子と友達になって」
麦茶を空のグラスに注ぐ。こぽこぽと、音を立てながら満たしていく。
「あと、水瀬くんに褒められたんだよね。」
冷蔵庫を開く。屋内でも汗が滴り落ちるほど暑いからか、この束の間の涼しさが心地よい。
「いやぁ、今日は楽しかったなぁ」
乾いた笑いをこぼした。グラスに乾いた唇をつけ、一気に飲み干す。空になった。
こん、とキッチンにグラスを置く。テレビの音がふと止んだ。
「嘘日記にはもううんざりだよ。」
今までちらりとも見なかった老婆が、そのしわで緩んだ瞼から覗く瞳を光らせる。
その澱んだ灰色の瞳は、どこか軽蔑したような目で流風を見ていた。
肩書としては「育て親」。関係性としては他人以上知り合い未満だ。
そして相手は流風のことを、「邪魔で面倒な奴」としか思っていない。そう。居場所なんて、元々あるはずがないのだ。
目を細めた奥で、老婆はまたテレビへと視線を戻す。
狭い部屋が暑苦しく流風を圧迫する。家にいても邪魔なだけだ。適当にいいわけでもつけて外へ出ようと、飲み干したグラスを炊事場に残した。小腹が減ったので、近くの棚に置いてあった金平糖の小包を何個かズボンに突っ込む。通り過ぎ様に振り返った。
「そういえば、帰り道田んぼに火がついててさ。ちょっと様子でも見てこよーかなぁ」
背中を丸めた老婆は振り返りもせず、たった一言
「どうせまた戯言だろう」
と独り言のように呟く。いちいち反応するのも面倒なものなので、颯爽と流風は家を出ていった。
まだ外は明るく、容赦のない太陽が顔を見せて照らしている。
行くあてもないまま、空になった手をもてあそばせながら歩いていく。何もない田舎を、ただひたすらと、歩く。
この暑さに耐えるのも酷だったので、川辺へと向かうことにした。汗に濡れたワイシャツはただ邪魔臭い。
井戸端会議最中の婦人の目の前を通れば、流し見して「オオカミ少年だ」とこそこそ噂話なんかする。ただの暇人だな、と思いながら歩く。
田んぼの道へと入った。老婆の言う通り、田んぼは全く燃えていない。変わり映えしないな、と思いながら足を動かす。
田んぼの並んだ道を外れ、ようやく川辺、丸石が敷き詰められたような河原へと辿り着く。
そんなに大きくない村だ。山と川に囲まれて、都市とは一切干渉していない。しかしながら、少数の村人相手に嘘をつくこの快楽は、たまったもんではなかった。
さっき噂話してきた婦人だって、空き缶を投げてきた中学生だって、涼しい顔をしていた水瀬だって、あの育て親という老婆だって、誰だって一度は流風に獣の顔を見せてきた。
人が本能的に出す表情。血眼になって、理性を全部とっぱらったような表情。
あの表情になった瞬間、流風は謎の優越感に浸っていく。どこかで感じる「こいつらと俺は違うのだ」という決定打。
丸石の地面に一つ、ちょうど大きな岩が剥き出しになっている。
そこに隠れるようにもたれかかって、流風は目の前に広がる川を眺めていた。
澄んだ匂いをいっぱい吸い込んで、永遠と続く水流の奏でる音に耳を澄ませる。
流風にとって、この世界に「本物」は存在しない。
本物の両親は、物心ついた時にはいなかった。老婆や村の人によれば、父親は身籠った母を見捨てて失踪。都会から逃げるように現れた母親の居場所などなく、おまけに体も弱かった母親は流風を産んでしばらくして亡くなった。
もしかしたら母親は覚えていたかもしれないが、今となってはもうそんな記憶など微塵もない。
本物の友達もいない。物心ついたときに周りにいたのは、やけによそよそしい大人だけ。
学校に入る頃には、嘘をつくことが日常になってしまったから論外だ。
本物の居場所。本物の隣人。本物の自分。
なにもかも存在なんてしていなくて、皆んな虚構の中で必死に取り繕って生きている。
その仮面を剥がすと、所詮ただの動物。獣に過ぎない。
「馬鹿らし。」
もし、母親も父親もいて、まっとうに生きていたのなら、こんなオオカミ少年にならなかったのかもなと、自嘲する。
生ぬるい風が頬を撫でる。夕暮れのほんのり暖かい感覚に、抗えない睡魔が流風を襲う。
ほんの少しだけ、と思いながら、束の間の休息の入った。
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