第2話 パンデミック
この夫婦は、旦那を、
「沢村恭平」
といい、奥さんを、
「伸子」
といった。二人は中学時代からの幼馴染であり、お互いに、家族ぐるみの付き合いだった。
二人の関係は、中学時代までは、
「普通に、幼馴染」
という程度のものだったが、最初に意識をし始めたのは、伸子の方だった。
伸子という女性は、性格的にカチッとしていないと気が済まないタイプで、いわゆる、
「潔癖症」
というタイプだった。
最近では、
「世界的なパンデミック」
のせいで、昔でいう、
「潔癖症」
と呼ばれるような人は、今では珍しくない。
昔読んだ探偵小説の中で、潔癖症な人のたとえとして、
「自分の机に他人が触れたというだけで、いちいちアルコール消毒をした」
という話が載っていたが、今では
「そんなの当たり前じゃん」
と言われるであろうが、
「世界的なパンデミック」
が起こる前では、
「いやだ。そんなやつとかかわりたくない」
とばかりに、まるで、
「自分とは関係がない」
と言わんばかりのことであった。
そこまで人が変わってしまうほど、
「世界的なパンデミック」
というのは、恐ろしいものだったのだ。
それを思うと、潔癖症というのは、
「本当は、悪いことではない」
といってもいいだろう。
それほどに、時代が変わったということであった。
時代が変わったというのは、いい方であっても、悪い方であっても、
「一長一短がある」
ということである。
いいことであっても、
「悪いことが絡んでいない」
というわけではないし、逆に、悪いことであっても、
「いいことが絡んでいない」
というわけではない。
それだけ、お互いに問題が、紙一重であり、明暗がくっきり分かれるというよりも、
「曖昧なことだ」
といってもいいだろう。
それこそ、
「世の中というのは、曖昧に、どちらに転ぶか分からない」
ともいえるだろう。
たしかに、伝染病というのは恐ろしいものだった。
「ちょっと触っただけでも、伝染病に罹る」
と言われ、しかも、
「致死率が半端ではない」
ということだったので、最初こそ、政府は、
「事の重大さ」
ということが分からずに、
「無図際対策を怠る」
という、完全な
「パンデミック対策」
の初動の失敗ということで、国民から、かなりのひんしゅくを買った。
しかも、いきなりの、
「学校閉鎖」
を行ったことで、さらに、信頼を落とした。
「学校閉鎖」
などという政策は、あらかじめ、
「下準備」
をしてからでないとパニックが起こることくらいは、普通の人にでもわかるというもので、もっといえば、
「一般市民の方が、実体験から分かる」
というものであろう。
今の時代は、ほとんどの家庭が、
「共稼ぎ」
である。
それも、政府が政策をとってこなかったことが原因なのに、その自覚がないから、
「学校を閉鎖するとパニックになる」
ということが分からないのだろう。
何しろ、学校閉鎖をしてしまうと、
「子供が、今まで学校に行っていた時間を、誰かに見てもらわなければいけない」
ということになる。
家族や親せきの中にそういう人がいればいいが、その家にも家庭があって、それどころではないだろう。
見てくれる人は、
「普通はいない」
と考える方が当たり前のことであって、そんな状態を下調べもせずに、いきなり、
「来週から、効率の小中学校は、閉鎖する」
などと言えば、大きなパニックになるというのも当然というものだ。
それでも、確かに、学校閉鎖をしないといけないくらいの事態にはなっていた。
それから、一か月もしないうちに、日本の法律でできる最大の対策といえる。
「緊急事態宣言」
というものが発令された。
基本的には、
「人流を八割減らす」
というのが最終目標だったのだ。
したがって、会社には、テレワーク、あるいは、出社しなければいけない最小限の人だけを残して、あとはテレワークということである。
そして、店舗については、飲食店は、休業要請、あるいは、時短営業を強いるということであった。
それ以外の、お店で、スーパー、コンビニ、薬局などの生活必需品を置いてあるお店以外は、基本、休業要請ということであった。
街は、完全に、
「ゴーストタウン」
になっていて、それでも、政府の発表としては、
「人流抑制としては、六割程度」
ということであった。
「その程度なんだ」
と驚きが隠せなかったが、確かに、これで六割というのは、ひどいというものだったであろう。
そんな中で、この宣言には、
「強制力というものはない」
というのも、日本の憲法は、
「平和憲法」
であるため、国民の権利を一部から、大部分を制限するという、
「有事」
という状態がないために、大日本帝国時代にあった、
「戒厳令」
というものは、存在しないということであった。
だから、憲法で保障された、
「法の下の平等」
であったり、
「基本的人権の尊重」
ということが、こういうときの政策に強制力を持たせられないのであった。
そもそも、
「有事」
というのは、別に戦闘状態になった時だけではないだろう。
大災害に見舞われた時だってそうなのだ。
この時の、
「世界的なパンデミック」
だって、大災害なのではないだろうか。
その証拠に、
「学校閉鎖」
というのは行ったではないか。
確かに罰則というのはないのだろうが、他が皆従っているのに、自分だけが営業をしているということは、社会生活では、命取りといってもいいほどである。
中には、
「緊急事態宣言下」
では、
「ここで営業をストップすると、数日で確実に潰れる」
ということが分かっているところは、
「背に腹は萎えられない」
ということで、強硬営業を行うところもあった。
普通の店は別に何も言われなかったが、その分、攻撃対象になったのが、
「パチンコ屋」
であった。
「あの開いている店は許せない」
といって、
「自粛警察を自認する連中は、容赦しない」
ということであった。
ただ、自治体も、
「従わないと、店名を公表する」
ということで、従わなかったので、店名を公表すると、今度はまったくの逆効果になった。
「おい、あの店営業しているらしいぞ」
ということを言われ、
「パチンコ依存症」
と呼ばれる人が、たくさん集まってくることになったのだ。
しかも、近所の人たちだけではなく、各地からわざわざ車で来たりするのだ。
大阪の店舗なのに、わざわざ九州から、パチンコをしに来るわけである。
しかも、台数に限るがあるので、例えば、全部で1000台あるとしても、もし、待っている人が、5000人いたとすれば、よほど早くいかないと入れない。
もし、店の方針が、先着ではなく抽選ということになれば、
「早くいけば、遊ぶことができる」
とは限らなくなり、
「そこまで行っただけ、労力の損だ」
ということになる。
しかもである、来たということは帰らなければいけない。
「たくさん勝つことができた」
ということであれば、疲れも少しが癒されるだろうが、
「実際に、勝てる保証などない」
といえるだろう。
せっかく抽選か先着で、座れたとしても、店も覚悟で営業しているわけだから、ぎりぎりの収支のところまで、儲かるように考えることであろう。
そうなると、
「客があおりを食らうのは当たり前」
ということで、それこそ、
「収支は関係なく、遊べたことだけで満足しないといけない」
といえるだろう。
九州から車で行く」
などという暴挙に及んだ人間の末路がどうだったのか、想像を絶することなのかも知れない。
そんなパンデミックに見舞われたことで、起こった、
「政府による、緊急事態宣言」
というものは、相当の経済に大きな影響を及ぼした。
「その宣言があった、一か月我慢できれば、元のように活気づいた街が戻ってくる」
なとというのは、あまりにもお花畑にいるような、
「夢物語」
であった。
伝染病は、
「ウイルスが原因」
だったのだ。
昔から、伝染病が流行った時というのは、
「第何波」
という形で、
「その波は少なくとも、4、5回はある」
というものであった。
しかも、
「ウイルスというのは、変異するものだ」
ということで、一度、ウイルスが下火になってくると、まるで蛇が脱皮するかのように、ウイルスはその形を変えて、人間が抗体を作れば、それに立ち向かえるだけの、方法を持っているということである。
そんなウイルスの変異に対して、翌年くらいに、そのピークを迎えた。
その頃になると、会社が潰れたり、店の営業がうまくいかないということで、失業者もあふれてくる。
国家は大した政策を打てるわけでもなく、ただ、
「怪しさ満載」
というワクチンを、奨励するだけだった。
「何かあったら、国が補償する」
といって接種させておいて、いざ、
「接種後に亡くなった」
という人がいても、
「因果関係が認められない」
などといってごねる始末だ。
「じゃあ、あんな保証するなんて言わなければううのに」
ということで、そんなことがあってから、さらに、ワクチンを打つ人が減ってきた。
「2回目接種以降、若者のほとんどは接種していない」
ということで、世の中には、伝染病患者があふれることになった。
それでも、
「ワクチン接種のおかげで、重症化しない」
などと、政府は言っているが、それこそ、
「1%しかないほどのよかった部分を、さも、80%くらいよかった」
とでも言いたいように、誇大宣伝をする。
自分たちがいっていることの辻褄が、いかに遭っていないかということが分かってのことなのか、きっと、
「馬鹿な国民をだまし切れている」
とでも思っているのだろう。
しかし、それが甘いことを、政治家は、選挙の時になって分かることだろう。
中には、あまりにも独裁的なことをしたことで、党内からも、
「次の選挙はあんたが総裁では勝てない」
ということで、元老といってもいい長老たちが、他の人を推すことになれば、もう八方ふさがりということになり、
「もう、どうしようもない」
ということで、
「次回の総裁選に出馬しない」
ということになり、結局、
「他の人がソーリになる」
ということで、結局、
「どんどん、ソーリになる人の質は、落ちまくっている」
ということになるのだ。
何といっても、
「ソーリのような権力を持つと、舞い上がってしまう」
ということなのか、要するに、今の時代に、
「ソーリの器」
に収まることのできる人など、どこにもいないということであろう、
しかも、その、
「質の低下」
というのは、野党にも言えることで、
「こんな与党が、穴だらけの政治をしているんだから、今なら野党が勝てるかも知れない」
というときに、野党内部で、分裂が起こったり、していることで、せっかくの
「政治を正す機会が失わる」
ということである。
国民もそんな体たらくな野党を信用できるわけがない。
そうなってしまうと。
「まだ、政府与党の方がいいか?」
ということになり、結局、まただまされて、次の選挙まで、
「今度のソーリの好き放題」
ということになる。
「支持率が下がれば、金をばらまく政策を打てば、やってますアピールにもなって、支持率も稼げる」
と本気で思っているのが、ソーリだというのだから、
「へそで茶を沸かす」
といってもいいだろう。
商店街も、まともにそんな状態を受け止めてきた。
確かに、ギリギリのところでやっているのだが、他の人たちのように、
「いきなり危機がやってきた」
というわけでなく、
「今までも、幾度にわたって、危機を乗り越えてきたのだがら、他の連中に比べれば、修羅場はくぐっている」
ということで、
「ギリギリ持ちこたえることができる」
という自負があった。
そういう意味で、節約をしたり、いろいろな手を講じてきたことで、何とかなっていた商店街だったが、その商店街も、さすがに、
「最初の緊急事態宣言」
の時には、かなり疲弊はしていたのだった。
「もうヤバいかも知れないな」
と言われていたが、それでも、
「政府がいうのだから」
ということで従っていた。
ただ、元々、半分くらいの店は日ごろから閉まっていたので、
「閑古鳥は、ずっと鳴いていた」
ということだったのだ。
だから、珍しい光景ではなかったが、それでも、世間で、この宣言中に、
「空き巣被害」
というのが、社会問題になっている。
ということだった。
繁華街の雑居ビルのようなところで店舗を張っている人は、店をそのままにしての、休業である。
普段からそんなに、防犯に関しては、
「夜に店が開いている」
ということで、
「普通の泥棒なら、真昼間から入るということはないだろう」
と考えられるので、
「それほど防犯に気を遣っていることはないだろう」
ということであった、
というのも、ビルに入るのに、吹き抜けであり、店舗のカギさえ開けられれば、入れるということであり、それほど防犯に気を遣っていないので、
「電子ロック」
のような鍵であれば、なかなかピッキングも難しいであろうが、普通のカギなら簡単に開けれる、
そんな意識しかないところだから、防犯カメラがあるのかどうか、それも怪しいものだった。
だからこそ、
「泥棒に狙われる」
ということで、緊急事態宣言中に、ちょっとした社会問題となり、まるで新選組のように、
「店舗見回り隊」
というようなものを、店主が当番で、見回っているというのが、現状だった。
今の時代は、警官の数も減ってきているので、そんな繁華街全部を見回るのは不可能というものだ。
何といっても、交番も、
「いくつかの町に一つしかない」
という程度になり、常駐で勤務も二人くらいという、
「そんなに減らして、治安が本当に平時であっても、守れることなどできるのだろうか?」
ということであった。
この商店街も例外ではなかった。
店主で組織した、
「新選組」
といってもいいように、法被を着ての、見回りだった。
「泥棒なんて許さない」
ということで、昼夜を問わずの見回りだった。
個々の店主は、すでに、金目のものは、持ち去っているが、在庫として抱えているものをそんなにたくさん持ち帰ることもできず、
「それが狙われたのであれば、しょうがない」
という覚悟はあったが、それはあくまでも、
「泥棒許しまじ」
という感覚である。
「あわやくば、捕まえることができれば御の字」
ということでのパトロール」
であった。
だが、そのうちに、
「まさかこんなことになるなんて」
ということで、皆が震撼するような出来事が起こった。
それは、見回りをするようになってから、約一週間というものが経ってからのことだった。
それは、ちょうど、松崎が、
「パトロール隊長」
を務めていた時で、
「まさか俺が、第一発見者になるなんて」
ということで、その日のパトロールを始めて、いつものコースを見回っている間、ちょうど見回り始めてから、30分くらい経った頃だっただろうか?
「そろそろ、目も慣れてきた頃だよな」
という自覚があり、
「懐中電灯の明かりが、却って邪魔になるかも知れない」」
と感じられたその時、
「おい、何かがあるぞ」
と思わず、松崎がいった。
あと3人のパトロール隊員が、寄ってきて、
「なんだろう。あれは?」
ということで懐中電灯をかざした時であった。
「うわっ」
という言葉とともに全員が、のけぞった。
そこにあるには、明らかに誰かの死体だったのだ。
薄暗い状況に、少し目が慣れてきたといっても、そこにあるのが、まさかの、
「信じられないもの」
ということであれば、誰が信じるというのであろうか?
ただ、腰を抜かしているのは、皆同じであり、逆に、
「皆一緒でよかった」
と思うくらいだった。
「人からこんな情けない姿、見られたくない」
という気持ちが先に働く場合は、実際に、こんあに切羽詰まった感覚ではないに違いないという気持ちの表れではないだろうか?
「情けない姿を見られてもいいから、ひとりになりたくない」
という気持ち、
「小心者の、肝試しだ」
といってもいいのではないだろうか。
どれくらい腰を抜かしていたのか、落ち着いてくると、
「俺がいち早く立ち直りたい」
と思うのであった。
というのも、まわりに対して、自分がひどい目に遭っているかのように思う時と、どこかが似ていると思うからではないだろうか?
子供の頃、いじめられっ子だった子供は、
「なるべく抵抗しないで、この場をやり過ごそう」
と思うのだ。
それに、
「他の人に知られたくない」
という思いもあり、それは、話を変に、
「ややこしくしたくない」
と感じるからに違いない。
それを考えると、
「パニックに陥る時は、皆一緒がいいが、立ち直る時は、自分が、一番であることに越したことはない」
と思うに違いない。
そう思うと、早く我に返り、その時にすることは何かということを考えると、
「110番だ」
と感じることは、当たり前のことに違いない。
皆が皆、同じような精神状態になるとは限らないだろう。
人それぞれに性格があるというもので、皆の性格というのは、なんとなくであるが分かっているつもりであり、
「俺と同じ方が珍しいのかも知れないな」
と感じるほどであった。
だから、松崎が、
「110番だ」
といった時、誰も、反対もせず。それに従った。
我に返った瞬間、皆頭の中が一瞬真っ白になり、それまで考えていたかも知れないことを忘れてしまったのだ。
それは、相手に、
「先を越された」
という意識があるからで、これから何を言っても、二番煎じにしかならないことが、恥ずかしい」
と感じるからに違いない。
そう思うと、二度とこの件で前に出てこれない。この瞬間から、この場の主導権は、
「松崎に任された」
といっても過言ではないだろう。
それを感じると、松崎というのは、
「しっかりしないといけない」
と思い、
「自分に主導権という権利とともに、責任という義務を同時に負ってしまったのだ」
ということになるのだった。
警察に連絡をまず入れると、
「すぐに、捜査員を向かわせます」
ということだったので、しばらく待たなければいけなくなった。
そういう意味でも、
「ここに一人で待っていなくてよかった」
というのは、皆感じたことだったであろう。
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