一人三役

森本 晃次

第1話 昭和の商店街

この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ちなみに世界情勢は、令和5年9月時点のものです。とにかく、このお話は、すべてがフィクションです。疑わしいことも含んでいますが、それをウソか本当かというのを考えるのは、読者の自由となります。


 ある街の商店街は、ずっとしまっていたのだが、最近になると、よく開いていることがある。昭和の商店街で、

「この商店街を一周すれば、たいていのものは揃う」

 と言われていた。

 しかも、そこまで広い商店街というわけではないのに、同じような店が、二軒はあるというのが特徴だった。

「しかも、だからといって、別に争っているわけでもない」

 むしろ、争っているとすれば、

「暖簾分け」

 ということをしたような店では、結構、言い争っているようなところはあるが、

 中には、兄弟で、別々の店を開いているというところもあるが、同じ本屋なら本屋を開いている場合は、喧嘩になることはなかった。

 しかし、逆に、

「兄弟で、別々の業種の職業を営んでいる場合は、いさかいがあることが多かった」

 それが、何が理由で来ているのか分からないが、どうにもいさかいが止まらないのだった。

 他の土地の、昭和の頃であれば、たとえば、

「兄弟で、同じ、饅頭屋を、しかも、道を隔てた正面でやっていたりすると。完全に犬猿の仲であった」

 というのも、

「元祖」

「本家」

 などという肩書をつけて言い争っているのだが、それが、まるで、

「子供の喧嘩」

 のようで、見ていて情けなくなるというよりも、

「やれやれ」

 という感じで、悪気のない、やるせなさのようなものがあったのだった。

 そんな商店街において、実際には、

「喧嘩になるようなことがあることはなく。ほとんど、店長同士、仲が良かったといってもいいだろう」

 その、店長たちの、

「たまり場」

 というのが、商店街の途中にあるアーケードの切れ目の当てりから、少し入ったところにある喫茶店だったのだ。

 隣には、ビジネスホテルはあるが、それ以外は、比較的静かなところで、

「こんな静かなところに店を作っても、客はこないだろう」

 と言われていたが、

「そんなことはないですよ。この辺りは、結構昔から賑やかで、皆から、昔は憩いの場と言われたものですよ」

 というのだった。

 そのうちの一人が、

「そうそう、俺はまだ小学生だったけど、よく親父に休みの日には、よく連れてきてもらったものだよ。確かに、子供がいても、違和感なかったな」

 というではないか。

 なるほど、子供の頃というと、大人が集まるところに連れてこられても、

「俺の居場所がないではないか」

 と思っていた。

 しかも、父親が連れてきたくせに、自分から、大人たちに絡みに行こうとすると、すかさず、父親が制するのだ。

「子供が立ち入るところではない」

 と言わんばかりのその態度に、

「頭に来た」

 と思ったことがどれだけあったことか。

「お父さんにとっての、場所を汚されたとでも思っているのかも知れないが、だったら、何で俺を連れてきたんだよ」

 と言いたかったくらいである。

 それをママさんに話すと、

「そうなんだね。確かにお父さんは、どこか目立ちたいところがあったのか、父親の威厳を見せたかったんじゃないかね?」

 といっていたが、息子としては、

「そんなこと分かってんだよ。分かっているからいらだつんであって、それが、自分にとって、どういうことを意味するか、それを思うと、たまったものではない」

 と感じた。

 父親の、

「分かりやすい態度というものは、それだけいやらしさを含んでいるのではないかと感じる」

 それが、少年の頃の、

「俺の黒歴史だ」

 ということを考えていたが、何をどう判断すればいいのか、正直困るのであった。

「俺はあんな親には決してならないぞ」

 と思っていたが、実際に、もうそろそろ40歳が近くなろうというのに、恋人すらいない。

 童貞ではないのだが、童貞でなくしてくれた友達が、今でも腐れ縁のように一緒にいるのだが、

 その友達は、彼と一緒で、この店の常連として、よくモーニングセットを食べていた。

 しかし、二人が同じ席に座ることはおろか、自分のことをいつもしていて、会話などというのは一切ないのだった。

 他の人は分からないが、彼は、少なくとも、

「親の七光り」

 というのが嫌だった。

 別に七光りでもなんでもないと思っているのだが、実際には、親の七光りという風に映っているようで、それを言われると、むきになって怒るということが、他の連中から見れば、

「面白い」

 という風に映るらしい。

 そんなまわりの反応が、どれほど嫌なことだといえるのだろうか。

 小学生の頃は、いじめにまで発展しなかったが、もし、もう少し虐められ方が、連中のツボにはまってしまえば、どのようになるかということを考えると、

「どうしようもない」

 といってもいいのではないだろうか?

 中学生になる頃には、いつの間にか皆と和解できたというよりも、どちらかというと、

「歩み寄った」

 といってもいいくらいになっていたのだ。

 だが、彼には、

「自分から歩み寄った」

 という感覚はなかった。

 相手が、そのあたりのことには気を遣ってくれたといえばいいのか、

「喧嘩にならないような応対をしてくれたことが、結果としてよかったのだろうと思うのだ」

 しかも、それを本人が分かっているので、相手にもそれが伝わったのか、

「今だったら、腹を割って話せるかもな」

 とも思ったくらいだった。

 だから、しばらくしてからではあったが、

「なんで、俺を虐めたんだ?」

 と聞いたことがあった。

「虐めたつもりはないんだけどな」

 とは言っていたが、次第に、それを認める素振りを見せるようになると、

「俺の方もそんなにこだわることもないので、何も言わなくてもいいよ」

 といったのだが、実際には、

「いやぁ、今となっては忘れちゃったんだよな」

 というではないか。

 心の中では、

「忘れちゃったのなら、そのまま墓場の中までもっていってほしいな」

 と思っていたのを、

「別に理由はない」

 ということを言われてしまい、笑われてしまうと、

「俺はどうすればいいんだ」

 ということになるだろう。

「何をそんなにこだわっているのか、何にそんなにこだわらなければいけないというのか?」

 ということを考えてしまうのであった。

 やはり、中学生になって、わだかまりは消えたかのように見えるが、根本的な距離が縮まっているわけではない。

 どちらかというと、

「交わることのない平行線」

 たどっているだけだった。

 そうでなければ、

「地球を一周するところで、もう一度どこかですれ違うことになる」

 と思っていたのだが、それが、

「平行線」

 ということになってしまっては、自分ではどうすることもできないという回答にしかならないのであった。

 中学時代から、いや、もっと前からだったか、いつも彼のそばにいたやつがいて、他から見れば、

「あいつの奴隷じゃんか」

 と言われていることも分かっていた。

 しかし、どうすることもできない。それが、

「俺の宿命のようなものなのかな?」

 という、あいまいな結論を出すことが、中途半端な性格を作っているということだと考えられるのだろうか。

 彼は名前を、

「松崎陽介」

 という。

 商店街の中では、ブティックを経営していて、父親が、元々洋服屋をしていたので、そも店を改造して、ブティックにしたのだった。

「親父が絶対に、何かいうと思ったんだけどな」

 と、松崎がいうと、まわりの店長仲間は、

「そうだよな。普通だったら、自分が始めた店を、そのまま息子にはやってもらいたいものだろうからな。だけど、あれはお前が正解だったかも知れないな。あれから、売り上げは結構伸びたんだろう」

 と言われた。

 確かに売り上げは伸びたが、

「爆発的に」

 というわけでもない。

 郊外型の大型ショッピングセンターには、遠く及ばず。何とか、この商店街にしがみつこうとしたのが正解かどうか、正直まだ分からない。

「俺が、この商店街を、盛り返してみせる」

 などという大きなことをいうわけではないが、何とか、しがみつくだけのものだけでもいいから、頑張りたいと思った。

 というのは、

「この商店街で生きていくだけでも、えらいといえるのではないか?」

 そう思うと、松崎は、却って、

「気が楽になればいいだけだ」

 と思うのだった。

 というのも、この商店街の中で、郊外型のショッピングセンターが近くにできるという時、

「テナントに入りませんか?」

 ということで、あちらかのオファーを受けたところもいくつかあり、中には、そのオファーに乗っかった人もいて、すぐに、あちらのテナントとして、店を構えることにしたのだが、最初こそ、

「こんな、先の見えた商店街でくすぶっているよりも、たくさんの客でにぎわっているところで商売がしてみたい」

 ということで、向こうに移ったのだ。

 彼は、まだ、40代前半くらいだった。

 だから、昔の

「賑やかだった商店街」

 というものを知らない。

 もちろん、それは松崎も同じなのだが、だからといって、松崎は、簡単に相手がいうことに乗るつもりはなかった。

「当然。親父も反対するだろうしな」

 ということもあったが、頭の回転の速い松崎には、相手の気持ちが見えた気がしたのだ。

「急いで、大型ショッピングセンターを作ったのだろうが、その理由は、正直、ブームの波に乗り遅れてはいけないという思いからであろう。しかし、そのために、どうせ、テナントもろくに決めていないだろうから、今から探すのかも知れない」

 と思っていたところの、テナントのオファー。

 それを見た時、

「やっぱり」

 と感じたのだ。

「そんな考えが浅はかな連中の経営するところに乗っかっても、どうせ、ろくなことにならないだろう」

 と思った松崎は、向こうに行った連中の様子を見ていたが、客が多かったのは、最初の数週間。そこから先は、平日の午前中など、

「スタッフの数の方が多い」

 ということになる。

 休みの日は、駐車場がないくらいに忙しいが、そのギャップを考えると、とても、儲かっているようには見えなかったのだ。

 案の定、店をたたむところや、支店として入ったところの撤退が相次いでいたのだ。

 そのうち、商店街から入った店も、いつの間にか、貸店舗の張り紙が貼ってあったりしたのだった。

 きっと、

「商店街でなら、商売になったのだが、テナントとして入ると、なかなか難しいのであろう」

 ということであった。

 商店街というと、たくさん店が並んでいるとしても、ライバルではあるが、

「皆が仲間」

 といってもいいだろう。

 だから、売れなかったら、

「他の店からの紹介だったり」

 という声かけもあったりするだろう。

 それに、基本的に、似たようなライバル店を近くに置いたりなどはしない。さらに、同じような系列の店であれば、遠くに配置したりという配慮があるに違いない。

 しかし、大型商業施設のテナントというと、基本的に、配置はそんなに意識していないであろう。

 そもそも、商店街のように、そんなにいろいろな種類の店があるわけではなく、ブティックやアクセサリー屋さんなどが、軒を連ねているという感じで、

「同じようなブティックが数軒並んでいる」

 という光景だってたくさんあることだろう。

 そんな状態で、売れるわけもない、それぞれの店が潰しあうのもオチだ。しかも、もし、その店が商店街にあれば、今までその店をひいきにしていた人がいたとしても、テナントのようなところに移転したとしても、今まで通りに、ひいきにするだろうか? 両隣が似たようなブティックがあれば、当然、比較して見るに違いない。

「商店街にあったら、そこしかないので、その店に行ったのに」

 と思うだろうし、そもそも、そこに店があったとして、

「商店街のあの店だ」

 ということにちゃんと気づくだろうか?

 それを思うと、

「客というのは、想像以上に店のことを考えてくれているわけではない」

 ということを、思い知らされるだけだった。

「馴染みといっても、冷たいものだ」

 と、今までの常連さんが、平気で隣の店で買い物をしているのを見ると、実に、世間の世知辛さというものを思い知らされるだけのことであった。

 さらにもう一ついえば、

「テナントとして入ったところで、このように、店の入れ替わりが激しかったりすると、今までは隣は競合店ではなかったとしても、今度入ってくる店は、競合店かも知れない」

 ということで、

「これまでの店でも、販売がギリギリなのに、隣に競合店が来たりすると、もうたまらない」

 と思うと、

「今までの商店街にいた頃が、厳しかったとはいえ、まだましだったのかも知れないな」

 ということで、テナントとして出店した人たちが、また商店街に戻ってくることはなかった。

「どの面下げて戻ればいいんだ」

 ということである。

「確かに、戻ることは可能なのかも知れないが、一度裏切った形になって、もし相手が許してくれたとしても、こちらは、一度裏切ったのだ。こちらの気が持たない」

 ということで、結局、もう、後戻りはできないということなのだ。

 そもそも、商店街を、

「裏切って」

 テナントとして、出店してしまったのだから、最初から戻るつもりなどないだろう。

 商店街にいれば、細々とでもやっていけたかも知れないところを、

「起死回生」

 を狙ったわけでもないが、

「落ちぶれていく商店街」

 というのを、

「抑えられない時代の流れ」

 ということで、心機一転、

「テナントに賭けた」

 ということだったのだ。

 要するに、

「自分の見る目が甘かった」

 ということは、

「時代の流れ」

 というものを見誤ったということであり。さらには、

「テナント経営」

 というものが、テナント内において、競争意識をしっかりしていないと、簡単につぶされるということを分かっていなかったのだろう。

 心のどこかで、

「まわりが、困ったら助けてくれる」

 という、

「お花畑的発想」

 があったに違いない。

 まわりは、一店舗でも危ないところがあり、それが競合店であれば、助けるどころか、

「ここが勝負」

 ということで、徹底的に、潰しにかかるかも知れない。

 それを思うと、どれだけ、

「ぬるま湯にいたということなのか?」

 ということを考えさせられる。

 しかし、もうどうしようもない。

 きっと、商店街を出ると決めた瞬間から決まっていた運命なのだろう。

 そんなことを考えていると、今の自分の立場が、

「選択の岐路に立たされている」

 ということが分かるというものだ。

 というのも、

「ここが試案のしどころだ」

 ということで、ちょうど、店をどうしようかを悩んでいるところであった。

 とはいえ、

「本当は、入った瞬間から、その悩みはずっと、続いている」

 といえる。

 なぜなら、商店街にいるときは感じたことはなかったが、何といっても、

「自分は商売をしているのだ」

 ということで、毎日が、本当は選択の日々だったはずだ」

 商店街の時は、その時は、少し、

「売れない時期」

 だったのかも知れないが、

「地の利」

 ということもあって、売れないなら売れないだけの理由というものが、それなりに分かっていたというものだ。

 だから、

「中期計画」

 というものを、頭の中ではあるが、立てられていて、それが、何とか考えているようになっているのも、そこでずっと商売してきたからだろう。

 当然、テナントに入っても、同じようなやり方をすることになるのだが、それは、逆に言えば、

「その方法しか自分にはできない」

 ということで、実際にやってみると、その中期計画というものが、真っ白な状態であった。

 これが、テナントとしてではなく、もし、別の商店街に移ったとしても、同じだったのかも知れないが、それだけ、

「場所を移る」

 ということが、どれほど大変なことだというのかというのを、思い知らされた気がしたのだ。

 商店街の方も、そんな仲間が昔はいて、今はテナントで頑張っていると思っていた。

 漠然とそう思っているだけで、別に、

「裏切られた」

 とは思っていないだろう。

「もし、彼らが成功したということであれば、商店街の他の人も、テナントに入ることを模索するようになるかも知れないな」

 という意味で、

「本当は、成功してほしくはないな」

 というのが、本音であった。

 もちろん、

「商店街のことを考える」

 ということからであって、そう考えるのは、ひいては、自分たちのためだということであった。

 商店街というものが、その存在がどれほど大きいものかということを、出て行った連中は身に染みて分かっているだろうが、残って守っていこうと思っている連中に、そこまでの意識がないというのは、皮肉なことであっただろう。

 商店街は、正直すたれてしまった。

「大型商業施設に客を取られた」

 ということであるが、実際には、

「客はたくさんいるかも知れないが、客が皆、商品を買っていくというわけではない」

 といえる。

 むしろ、冷やかしというものも多く。ただ、それでも、

「冷やかしがいるから、買っていく人も多い」

 といってもいいだろう、

 確率からいけば、かなり購入率は低いだろうが、売り上げとしては、まぁまぁかも知れない。

 だが、テナントとして、払わなければいけないお金もあるわけで、そこに見合うような売り上げなのかというとそうでもない。

 そうなると、

「テナント」

 ということが、相当なネックになっているということで、どうしようのない部分が多いのも事実だったであろう

 そんなことを考えていても、売り上げが伸びるわけでもないし、何といっても、他の人たちのように、今まで、もまれてきたわけではないことで、

「どのようにすれば、売れるのか?」

 というノウハウを持っているわけではない。

 それを思うと、

「どのようにすればいいのか、分かるはずもなく、途方に暮れてしまい、思い出すのは、商店街のことばかりだ」

 ということであった、

 正直、

「昔の、よかった頃のことを思い出すようになっては、もう終わりだ」

 と言われることも多いが、まさにその通りではないだろうか。

 その頃になると、自分が店を畳んでいるというイメージが頭に浮かんでくるのであった。

「ああ、何のために、皆を裏切ってまで、こっちに来たのだろう?」

 ということである。

 本当は、そんなことを考える余裕などないはずだが、それでも、考えるということは、それだけ頭が回らないということなのだろうが、それが、

「現実逃避だ」

 ということになるのだろうが、現実逃避というものが、意外と心地よいということに気づくのだ。

 中にはやけくそになって、店のことは従業員に任せて、遊び歩き、結局借金を増やす人もいるかも知れない。

 本当に、

「パチンコ屋に入り浸る」

 という人もいたというのも聞いたことがあるが、店を畳んだ時、どれほどの負債となったのかということまでは分からない。

「自己破産」

 ということで、もう、店を営むことをあきらめた人もいることだろう。

 仕事もせずに、ホームレスになったという人もいた。

 考えてみれば、

「どれだけ、落ちるんだ?」

 ということで、下ばかり見ていて、底なしの沼に嵌っているということを、自覚してしまうことになるだろう。

 ただ、上を見ると、空はいつもそこにある。その空というのは、絶対に掴むことのできないところにあり、それを思い知らされるのが、底なし沼の底辺になかなかたどり着かないということであろう。

 結局、毎日のように、売り上げとの闘いで、中間計画も立てられず、目の前の日々のことだけで精一杯になる。

 そんな、

「五里霧中」

 の中で、どうすることもできずにいると、自分が、

「現実逃避の中にいる」

 ということを感じてくる。

 本当に逃げているということが、ギャンブルなどのような形になっているものではないので、なかなか気づかないのだが、形になるものは、何が恐ろしいといって、

「依存症」

 というものと背中合わせになっていることだった。

 それは、普通に楽しんでいるという人にも言えることであるし、

「現実逃避」

 という目的がある人であっても、同じことだ。

 誰にでもある依存症であるが、その程度に個人差はあまりないだろう。しかし、その依存症になるきっかけが、皆違うので、出てきた結果は違っている。だから、

「依存症」

 というのは、

「現実逃避」

 というものから入った人にはかなわないと思っているのではないだろうか?

 依存症となって、完全に破産するしかなくなった人も多いだろう。

「パチンコなんかやめて、仕事に集中してよ」

 と、奥さんが諭したとしても、本人には、聞く耳はない。

「俺の現実逃避を邪魔するな」

 と、

「邪魔するやつが悪い」

 という感情にいたりということになってしまうに違いない。

 それを考えると、

「もうその時すでに、精神網弱になっているに違いない」

 といえるだろう。

 民法において、

「法律的無能力者」

 というものがある。

 それは、決して差別的な言葉ではなく、実際に、

「契約を結んだりするのに、精神的に足りない状態の人が契約することで、被害を被らないようにする」

 ということが目的だ。

 そもそも、最初から、

「相手をだます」

 という意思がないことが、その成立要件である。

 そんな中での無能力者というのは、

「未成年」

「準禁治産者」

「禁治産者」

 に分かれる。

 それぞれにおいて、その効力は違ってくるのだが、基本的に、

「その法律は取り消すことができる」

 あるいは、

「最初から無効にできる」

 というものである。

 そして、それぞれに、元々、契約には、制限というものがある。それでも、契約を結ばないといけない場合は、

「親権者」

 などの、

「法定代理人」

 であったり、

「保佐人」

 と呼ばれる人が介入しての契約である必要がある」

 ということである。

 もちろん、契約の時に、相手はどの状態にあるのか分かっている場合は、分かりやすいのだが、それは、未成年のように、契約書に年齢を書いたりする場合は分かるというものだ。

 もちろん、そこで嘘を書くと、

「契約違反」

 あるいは、

「詐欺罪」

 が成立することになり、それぞれで、罪の重さが違ってくることだろう。

 しかし、

「準禁治産者」

 であったり、

「禁治産者」

 であるということは分からない。

「準禁治産」

 というのは、基本的に、

「金遣いの荒い人」

 というのが、その部類に入る。

 そこに引っかかってくるのが、

「依存症」

 というもので、

「私は、浪費癖があります」

 などといって契約する人なんていないので、すぐには分からないというものだ。

 さらに、

「禁治産者」

 というのは、

「精神網弱者」

 というもので、

「契約をするだけの精神状態にない」

 という人のことをいうのだろう。

 だから、こちらも、まさか自分から、

「私は、精神網弱者です」

 などと宣言するわけでもない。

 ましてや、契約の相手が、

「あなた、精神疾患があるんじゃないですか?」

 などといったものなら、人によっては、ヒステリックになり、話し合いどころではない状態になることもあるだろう。

 そうなれば、最初から契約しなければいいのだが、それを聞いたことで、

「名誉棄損」

 や、

「差別だ」

 などといわれると、それこそ、どうしようもないということになってしまう。

 そんな状態になるが、特に精神疾患などというものは、

「いつどこで、どのタイミングでなってしまうのか?」

 ということは分からない。

 本当は、

「いきなりなった」

 というわけではなく、本当は、徐々に鬱積しているものがあったということで、

「精神疾患に陥ったのは、最初から起こるべきことだった」

 ということになるのかも知れない。

 そんな状態を考えると、

「契約」

 というものに対して、相手が、

「法律的無能力者だ」

 という場合の契約が、結ばれた後で、

どのようなことになるか?」

 ということを、事前に法律で定めておくというのも大切なことであり、民法には、キチンとそのあたりのことは、明文化されているのであった。

 だから、奥さんとしても、

「落ちぶれていく夫」

 を、ぎりぎりまで我慢することはできるが、一度キレてしまうと、もうどうしようもないということで、離婚というのも、余儀なくされることであろう。

 とはいえ、その人の奥さんも、実は裏で、不倫をしていたようで、離婚の時は分からなかったが、離婚して、法律上の待期期間の半年を経過したところで、

「いきなり結婚した」

 というのだから、したたかなものだ。

「やられた。確信犯ではないか」

 と思ったが、もう遅い。

 実際には、別れた奥さんどころではない。これから自分がいかにしていけばいいかということが大切であった。

 事件は、そんな二人の間に起こったのだった。


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