第3章:新しい環境と自己発見(大学1年)


 春の柔らかな陽光が降り注ぐ中、私は新生活への期待と不安を胸に、大学の門をくぐった。環境学部で新たな学びを始める私の心は、複雑な思いで揺れていた。


 広大なキャンパス、多種多様な学生たち、高度な講義内容。全てが新鮮で刺激的だった。しかし同時に、この新しい環境に馴染めるだろうかという不安も大きかった。


(みんな、自分の意見をはっきり言えていいな……私には……)


 そんな思いが頭をよぎる度に、私は美月と陽菜からもらったお守りを握りしめた。2人の笑顔を思い出すと、少し勇気が湧いてきた。


 大学生活が始まって1ヶ月が過ぎた頃、私は図書館でアルバイトを始めた。本に囲まれた静かな空間が、私の心を落ち着かせてくれた。本を整理しながら、環境問題に関する新たな知識を得ることもでき、充実した日々を過ごしていた。


 図書館の静寂を破るのは、本を整理する私の指先が紙の表面を撫でる微かな音だけだった。薄暗い書架の間を縫うように歩きながら、私は無意識のうちに背表紙を指でなぞっていた。そんな中、ふと目に留まったのは「LGBTQ」という文字だった。


 その瞬間、私の心臓が小さく跳ねた。これまで意識的に避けてきた分野だった。しかし、今日はなぜか手が伸びていた。背表紙に刻まれた文字を指でなぞり、ゆっくりとその本を棚から引き出す。


 表紙には虹色の旗が描かれていた。「多様な性 - 自分らしく生きるために」というタイトルが、静かに私に語りかけてくるようだった。


 周りを確認し、誰もいないことを確かめてから、その場に腰を下ろした。ページをめくる音が、静寂の中で不自然なほど大きく響く。


 最初のページには、性的指向の多様性について書かれていた。異性愛、同性愛、両性愛...それぞれの定義を目で追っていくうちに、私の中で何かが揺れ動き始めた。


「同性愛:同性に性的・恋愛的な魅力を感じること」


 その文字を読んだ瞬間、私の脳裏に美月と陽菜の顔が浮かんだ。2人と過ごす時間の中で感じる温かさ、心地よさ。それは単なる友情を超えた何かだったのかもしれない。


 ページを進めていくうちに、私の手は少し震えていた。自分自身の感情と向き合うことへの恐れ、そして同時に、長年の疑問に答えが見つかるかもしれないという期待。


「女性同士の恋愛」というセクションに差し掛かった時、私は思わず本を閉じてしまった。しかし、すぐに深呼吸をして再び開く。そこには、様々な女性カップルの体験談が綴られていた。


 彼女たちの言葉一つ一つが、私の心に深く刻まれていく。愛する人と手を繋ぐ喜び、社会の偏見と闘う勇気、そして何より、自分自身を受け入れる大切さ。


 読み進めるうちに、私の頬を伝う温かいものに気づいた。涙だった。それは悲しみの涙ではなく、長年抑圧してきた自分自身の一部と向き合えた安堵の涙だった。


「私は……女性を愛しているのかもしれない」


 その言葉を心の中で繰り返す。最初は恐ろしかったその想いが、徐々に温かなものに変わっていく。美月と陽菜のことを思い出す。2人と過ごす時間の中で感じる幸せ、心の奥底で燻っていた特別な感情。それが「愛」だったのかもしれない。


 本を閉じ、深く息を吐き出す。図書館の静寂が、今までとは違って心地よく感じられた。まるで、長年の重荷から解放されたかのように。


 立ち上がり、本を元の場所に戻す。しかし、その前に、もう一度表紙を見つめた。「自分らしく生きるために」……その言葉が、これからの私の人生の指針になるような気がした。


 本を棚に戻し、私は静かに微笑んだ。まだ不安はあるが、同時に新しい希望も芽生えていた。これが私の新たな一歩。美月と陽菜との関係も、きっと新しい展開を迎えるだろう。


 図書館を出る時、外の世界が少し違って見えた。同じ景色なのに、何もかもが新鮮に感じられる。私の中で、何かが大きく変わり始めていた。これからの人生で、どんな困難が待っているかはわからない。でも、もう後戻りはしない。


(私は、女性を愛している)


 その言葉を心の中で繰り返しながら、私は新しい世界へと一歩を踏み出した。


 しかし、その気づきは同時に新たな不安も生み出した。


(私の気持ち、2人に伝えるべきなのかな……伝えたら、今の関係が壊れてしまうんじゃないか……)


 そんな葛藤を抱えながらも、私は自分自身と向き合い続けた。LGBTQに関する本をさらに読み進め、オンラインコミュニティにも参加してみた。そこで出会った人々の経験談に、私は勇気づけられた。


 夏休みが近づき、3人で再会する機会を得た。久しぶりに会った2人の姿に、私は胸が高鳴るのを感じた。


(2人とも、こんなに美しく成長している……)


 その思いに、私は少し戸惑いを覚えた。これは単なる友情の域を超えた感情なのだろうか。


 3人で過ごす時間の中で、私は自分の気持ちに少しずつ向き合っていった。美月の繊細な仕草、陽菜の力強い笑顔。それらに触れるたびに、私の心は大きく揺れ動いた。


 しかし同時に、母親から受けた虐待の記憶が突然フラッシュバックすることもあった。


「誰もあんたなんか愛してくれないわよ」


 母の冷たい声が頭の中で響く。

 私は思わず身を縮こませた。


「琴音? 大丈夫?」


 美月が心配そうに声をかけてきた。


「うん……大丈夫」


 私は微笑みを浮かべて答えたが、心の中では葛藤していた。


(この2人に、本当の私を受け入れてもらえるのかな……)


 そんな不安を抱えながらも、私は2人との時間を大切に過ごした。3人で寄り添いながら眠りについた夜、私は長い間忘れていた安心感を味わった。美月と陽菜の温もりに包まれながら、私は自分の気持ちを整理しようとしていた。


 しかし、朝になると再び不安が襲ってきた。


(この幸せは、いつか終わってしまうんじゃないかな……)


 そんな思いを抱えながらも、私は2人との絆を信じ、自分の道を歩む決意を固めていった。


 夏休みが終わり、大学に戻ると、私は環境問題に関するサークルに入ることにした。そこで出会った先輩や同級生たちと、環境保護活動に参加するようになった。地域の清掃活動や、企業へのSDGs提案など、実践的な活動を通じて、私は自分の存在意義を少しずつ見出していった。


 ある日のサークル活動後、先輩の一人が私に声をかけてきた。


「琴音ちゃん、最近元気ないみたいだけど、何かあった?」


 その言葉に、私は少し戸惑った。自分ではそんなつもりはなかったが、周りから見るとそう映っていたのかもしれない。


「実は……自分のことで悩んでいて……」


 私は勇気を出して、自分のセクシュアリティについての悩みを打ち明けた。


 先輩は優しく私の話を聞いてくれ、こう言った。


「琴音ちゃん、あなたはあなたのままでいいんだよ。誰かに認められるためじゃなく、自分自身を受け入れることが大切なんだ」


 その言葉に、私は涙が込み上げてきた。長年、自分を否定し続けてきた私にとって、その言葉は大きな救いとなった。


 その日以来、私は少しずつ自分自身を受け入れる努力をするようになった。環境問題への取り組みを通じて自己肯定感を高め、同時に自分のセクシュアリティについても向き合っていった。


 美月と陽菜とは、定期的にビデオ通話で近況を報告し合っていた。2人の顔を画面越しに見るたびに、私の心は温かさで満たされた。いつか、2人に本当の自分の気持ちを伝える日が来るかもしれない。そう思うと、怖さと期待が入り混じった感情が湧き上がってきた。


 大学1年の終わりが近づく頃、私は以前よりも自信を持って前を向けるようになっていた。環境問題への理解が深まり、自分の役割を少しずつ見出せるようになった。そして、自分のセクシュアリティについても、徐々に受け入れられるようになっていた。


 美月と陽菜との絆は、距離や時間を超えて、さらに強くなっていった。2人の存在が、私に勇気と希望を与え続けてくれた。


 春の訪れを告げる風が吹く中、私は新たな学年を迎える準備をしていた。まだ多くの不安や迷いはあるけれど、もう後ろを向くことはない。美月と陽菜という大切な友人がいる。そして、自分自身を受け入れ始めた新たな私がいる。


 窓の外に広がる満開の桜を見つめながら、私は深呼吸をした。これからも困難は訪れるだろう。でも、もう恐れることはない。一歩一歩、自分の道を歩んでいく。そう心に誓いながら、私は新たな春を迎える準備をしていた。

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