第5章:社会人としての挑戦と愛の形(就職1年目)

 大学を卒業して2年が経ち、私たち3人はそれぞれの道を歩み始めていた。私の人生は、予想もしなかった方向に進んでいた。


 私は、芸術の世界で新たな挑戦を始めていた。しかし、それは絵画ではなく、デジタルアートの分野だった。テクノロジーと芸術の融合に魅了され、VR(仮想現実)を使った革新的なアート作品を制作していた。


「観る人の五感全てに訴えかける作品を作りたいんです」


 初めての個展の記者会見で、そう語った私。従来の美術界に波紋を投げかけ、賛否両論を巻き起こしていた。でも、これこそが私の表現したかったものだと確信していた。アジェンダーとしての自分の経験や感覚を、VRを通じて他の人々に伝えることができる。それは、私にとって大きな発見だった。


 陽菜は思わぬ転機を迎えていた。オリンピック出場を目指していた彼女が、交通事故で膝を壊し、選手生命を絶たれてしまったのだ。でも、彼女は挫折から這い上がり、障がい者スポーツの指導者として新たな道を歩み始めていた。


 琴音は、留学先で環境問題に関心を持ち、帰国後は環境保護団体に就職。企業のSDGs戦略のコンサルタントとして活躍していた。


 3人の生活リズムは大きく異なり、顔を合わせる機会は激減していた。それでも、私たちは月に一度、オンライン通話で近況を報告し合っていた。


 ある日の通話で、私は思い切ったことを提案した。


「私たち、一緒に暮らさない?」


 陽菜と琴音は驚いた様子だった。


「でも、私たちの仕事は全然違う場所だよ?」


 陽菜が困惑した様子で言った。


「そうね、でも今はテレワークの時代。工夫次第で可能かもしれないわ」


 琴音が考え込むように答えた。


 議論の末、私たち3人は同居を試してみることに決めた。都心から少し離れた、自然豊かな地域に一軒家を借りることにした。


 引っ越しの日、3人は久しぶりに対面で再会した。


「みんな……変わったね」


 陽菜が少し寂しそうに呟いた。


「でも、大切なものは変わってないわ」


 琴音が優しく微笑んだ。


 私は黙って2人を抱きしめた。この2年間、私は自分自身との和解を果たしていた。アジェンダーである自分を完全に受け入れ、それを芸術表現に昇華させることができた。だからこそ、今こうして2人と再会できた時、心からの喜びを感じることができた。


 同居生活が始まってみると、予想外の困難が待っていた。生活リズムの違い、仕事のストレス、そして何より、3人の関係性の変化が私たちを戸惑わせた。


 ある夜、私のVR作品の締め切りで徹夜で作業をしていると、陽菜が心配そうに声をかけてきた。


「美月、無理しないで。体壊しちゃうよ」

「大丈夫、これが私の仕事だから」


 私は冷たく返してしまった。

 そんな自分に驚きながらも、どこか距離を感じずにはいられなかった。


 琴音は、そんな私たち2人のやり取りを黙って見ていた。

 彼女の中で、何かが壊れそうな予感がしていたのかもしれない。


 ある日、琴音が仕事から帰ると、リビングで私と陽菜が激しく言い合っていた。


「あなたの作品、正直理解できない」陽菜が叫んでいた。

「理解しようともしないくせに!」私も負けじと声を張り上げた。


 琴音は私たち2人の間に割って入った。


「やめて! 私たち、どうしてこんなことに……」


 その瞬間、3人は我に返った。

 お互いの顔を見つめ合うと、突然、笑い出してしまった。


「私たち、なんてバカなんだろう」陽菜が涙を拭いながら言った。

「そうね、大切なものを見失いそうだったわ」琴音も同意した。


 私は黙って2人の手を取り、自分の作業部屋に連れて行った。そこで、私は最新作のVRヘッドセットを2人に被らせた。


 今、私の作業部屋の中央に、陽菜と琴音が立っている。2人の目は、VRヘッドセットに覆われ、その手は宙を掴むように動いている。私は少し離れた場所から、緊張した面持ちで2人の反応を見守っていた。


 突然、陽菜が小さく息を呑む音が聞こえた。続いて琴音も静かに「あっ」と声を漏らす。2人の体が、まるで風に揺られるように、わずかに揺れ始めた。


 VR空間の中で、2人の目の前に広がっているのは、まるで宇宙のような無限の空間だった。その中に、私たち3人の記憶や感情が、色とりどりの光の粒子となって浮かんでいる。


 まず、高校時代の思い出が現れる。教室での3人の姿、文化祭でのポスター、屋上での星空の下での約束。それらの光の粒子が、ゆっくりと渦を巻きながら、1つの大きな光の塊となっていく。


 VR空間の中で、陽菜と琴音の目の前に、巨大な男性と女性の記号が現れる。それらは最初、堅固で不動のものとして存在している。しかし、突然、それらの記号が揺らぎ始める。


 まず、記号の輪郭がぼやけ始め、その境界線が曖昧になっていく。次に、男性記号の矢印部分が伸び縮みを繰り返し、女性記号の十字部分が回転を始める。それらの動きは次第に速くなり、やがて目が追いつかないほどの速さになる。


 突然、両方の記号が爆発するように砕け散る。無数の光の粒子となって宙を舞う様子は、まるで花火が炸裂したかのよう。この瞬間、陽菜と琴音の体が小さく跳ねる。驚きと共に、何か大きな解放感を感じたかのようだ。


 砕け散った粒子は、ゆっくりと新たな形を形成し始める。それは、男性でも女性でもない、そして同時に両方でもあるような不思議な形。時には流動的に形を変え、時には複数の形が共存している。


 その中心には、人型の光の塊が浮かび上がる。これが私を表現しているのだと、陽菜と琴音は直感的に理解する。その人型は、男性的な特徴と女性的な特徴を併せ持ちながら、同時にどちらにも分類できない独特の存在感を放っている。


 光の人型は、ゆっくりと動き始める。その動きに合わせて、周囲の空間全体が変化していく。時には鮮やかな色彩が広がり、時には モノクロ の世界に変わる。それは、アジェンダーとして生きる中で経験する、様々な感情や経験を表現しているかのようだ。


 陽菜と琴音の体が、その光景に反応するように、わずかに震える。2人は無意識のうちに手を伸ばし、光の人型に触れようとする。その瞬間、人型が2人の方に顔を向け、優しく微笑むように見える。


 そして、光の人型が両手を広げると、周囲の空間全体が、虹色の光に包まれる。それは、既存の性別の概念を超えた、無限の可能性を示唆しているかのよう。


 陽菜と琴音の体の震えが大きくなる。それは恐れではなく、深い共感と理解から来るものだった。2人の顔には、涙が光っている。


 この光景を通じて、2人は初めて、私の内なる世界を真に理解したのかもしれない。アジェンダーとして生きることの複雑さ、苦しみ、そして美しさを。


 続いて、陽菜の物語が展開する。オリンピックを目指す彼女の姿が光の中に浮かび上がり、突然の事故、そして歩行訓練のリハビリをする彼女の姿へと変化していく。しかし、その光は次第に強さを増し、障がい者アスリートたちと共に輝く陽菜の姿へと変わっていく。陽菜の唇が小さく震え、目元が濡れていくのが見えた。


 琴音の環境への想いは、美しい地球の姿として現れる。しかし、その青い球体が次第に色あせていき、琴音の悲しみや怒り、そして希望が、様々な色彩となって地球を包み込んでいく。最後に、その地球が美しい音楽を奏で始める。琴音の体が、その音楽に合わせて小さく揺れ始めた。


 そして最後に、これらの全ての要素が一つに融合していく。私たち3人の姿が、光の渦の中心に現れ、互いの手を取り合う。その瞬間、空間全体が眩いばかりの光に包まれ、無数の色彩が花火のように広がっていく。


「これが……私の本当に表現したかったもの」


 私の声が、静かに部屋に響く。


 陽菜と琴音が、ゆっくりとVRヘッドセットを外す。2人の頬には、涙の跡が光っていた。言葉を失ったように、2人は私を見つめる。


 そして、琴音が小さく呟いた。


「美月……これが、あなたの中の世界だったのね」


 陽菜は、まだ言葉を見つけられないようだったが、大きく頷いて私に歩み寄り、強く抱きしめてきた。


 3人の間に言葉は必要なかった。私の作品を通じて、私たちは新たな次元でつながることができたのだから。


 VRを外した陽菜と琴音の目には涙が光っていた。3人は言葉なく抱き合った。


 その夜、3人は再び愛し合った。でも、以前とは違っていた。それは単なる情熱の発散ではなく、互いの存在を確かめ合うような、深い交わりだった。


 私は、初めて自分のありのままの姿を、完全に2人に見せることができた気がした。アジェンダーとしての自分、アーティストとしての自分、そして何より、2人を愛する自分。全てを。


 そして、2人もまた、自分たちの全てを私に見せてくれた。


(30歳の美月の回想)


 就職1年目。私たち3人が再び一つになった時期。今思えば、あの頃の私たちは、それぞれの道を歩みながらも、常に互いを思いやっていたんだと気づく。


 VRアーティストとしての道を選んだ私。最初は戸惑いもあったけど、今ではこの選択が正しかったと確信している。テクノロジーを通じて、私の内なる世界を表現できる。アジェンダーとしての経験や感覚を、より多くの人々と共有できる。


 陽菜の挫折と再起。彼女の強さに、私はいつも勇気をもらっていた。琴音の環境への想い。彼女の志の高さが、私の創作意欲を刺激してくれた。


 3人で同居を始めた時のこと。最初はぎこちなかったけど、徐々に互いを理解し、受け入れていった。あの喧嘩さえも、今では懐かしい思い出。


 そして、私の作品世界に2人を招き入れた夜。あの時、初めて私は自分のすべてを2人に見せることができた。アジェンダーとしての自分、アーティストとしての自分、そして2人を愛する自分。全てを。


 今、30歳になった私は、あの頃の私たちを誇りに思う。それぞれの道を歩みながらも、互いを大切にし続けた私たち。そして、新たな形の愛を見出した勇気。


 これからも、私たち3人の物語は続いていく。それぞれが成長し、互いを高め合いながら。そして、いつかまた新たな挑戦に向かって歩み出す日が来るかもしれない。でも、もう恐れはしない。なぜなら、私たちには互いがいるから。


 あの頃の私たちに伝えたい。「あなたたちは正しかった」と。「互いを信じ、受け入れ合うことで、より強くなれる」と。「そして、それぞれの個性を大切にすることで、より豊かな関係を築ける」と。


 過去の自分たちに感謝しながら、未来へ向かって歩んでいこう。私たちの絆は、時間が経っても、どんな困難に直面しても、決して消えることはないのだから。

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