第4章:将来への不安と絆の試練(大学3年)

 時が流れ、気がつけば大学3年生になっていた。私の中の葛藤は、まだ完全には解消されていなかった。むしろ、将来への不安と共に大きくなっていた気がする。


 その年、私は有名画廊でのインターンシップの機会を得た。自分の才能が認められたことに、喜びと期待を感じていた。でも、そこで待っていたのは厳しい現実だった。


「君の絵には魂が足りない」


 画廊のオーナーは冷ややかに言い放った。


「技術は素晴らしいが、本当に表現したいものが見えてこない。きみは女性らしさが描きたいのかい? それとも男性らしさが描きたいのかい?」 


 その言葉は、まるで私の心の奥底を覗き込むようだった。そう、私にはまだ「本当に表現したいもの」が分からなかったんだ。アジェンダーである自分。それを受け入れることができていない自分。その葛藤が、私の作品にも表れていたんだ。


 一方で、陽菜と琴音との関係も、微妙に変化していた。陽菜はオリンピック選手を目指すか、一般企業に就職するかの岐路に立たされていた。琴音は留学を考えるようになっていた。


 私は、自分の芸術的表現を追求するために、2人と離れる必要があるのではないかと悩み始めていた。でも、その思いを2人に打ち明けることができずにいた。


 夏の終わり、3人は久しぶりに会う機会を得た。

 再会した時の空気は、どこか以前とは違っていた。


「ねえ、みんな元気にしてた?」


 陽菜が明るく声をかけたが、その笑顔には少し強張りが見えた。

 私は黙ったまま、遠くを見つめていた。

 琴音は何か言いたげな表情を浮かべながら、ため息をついた。


「私たち、少し話し合う必要があるんじゃないかな」


 琴音が静かに切り出した。

 3人は公園のベンチに腰を下ろした。夕暮れ時の柔らかな光が私たちを包み込む。


「私ね、留学を考えているの」


 琴音が告白した。


「え……」


 陽菜が絞り出すような声を上げた。

 私は黙ったまま、地面を見つめていた。


「実は私もこのままオリンピックを目指すか迷ってるんだ」


 陽菜も自分の悩みを打ち明けた。

 沈黙が流れた後、私はようやく口を開いた。


「私……もしかしたら、2人と離れる必要があるかもしれない」


 その言葉に、陽菜と琴音は驚きの表情を浮かべた。


「どういうこと?」


 陽菜が動揺した様子で尋ねた。


 私は深呼吸をし、ゆっくりと口を開いた。

 声は震え、目には涙が滲んでいる自覚があった。


「私ね……最近、自分の芸術表現について悩んでいるの」


 私は一度言葉を切り、勇気を振り絞るように続けた。


「画廊のオーナーに、『君の絵には魂が足りない』って言われたの。その言葉が、ずっと頭から離れなくて」


 私の声が少し上ずる。陽菜が優しく私の背中に手を置いてくれる。


「最初は意味が分からなかった。でも、徐々に分かってきたの。私の絵に本当の自分が表れていないって。だって、私は本当の自分を隠してきたから……」


 私は一瞬言葉を詰まらせた。

 琴音が優しく頷きながら「ゆっくりでいいよ」と声をかけた。


「それで気づいたの。私たち3人の関係が……私を縛っているんじゃないかって」


 その言葉に、陽菜と琴音は驚いた表情を見せたが、私の話を遮ることはしなかった。


「違うの。2人のせいじゃない。私が……私自身が、この関係の中で自分を見失っていたの。自分を偽って生きてきた。それが、私の芸術を窒息させていたんだと思う」


 私の頬を、一筋の涙が伝う。

 それでも、私は話し続けた。


「でも、それだけじゃないの。もっと大きな問題があって……」


 私は一度深く息を吸い、覚悟を決めたように顔を上げた。

 陽菜と琴音の目をまっすぐ見つめる。


「私……実は……アジェンダーなの」


 その言葉が、沈黙を生んだ。

 静寂だけが、3人の周りを包む。


「アジェンダーってね……特定の性別を持たない、または性別そのものを持たないと自認している人のことなの……」


 私は2人にうまく伝えられているだろうか。そんな心配が胸を離れない。


「私、ずっと違和感があった。女性として扱われることに。でも、かといって男性になりたいわけでもなくて……」


 私の声は震え、涙があふれ出す。

 それでも、私は必死に言葉を紡ぎ続けた。


「この気持ち、ずっと誰にも言えなかった。2人にさえも。だって、2人に嫌われるのが怖くて。私たちの関係が壊れるのが怖くて」


 私は両手で顔を覆い、肩を震わせて泣き始めてしまった。

 みっともなく、どうしよもなく、弱い、私。

 陽菜と琴音は、言葉もなくそんな私を抱きしめてくれた。


「でも、もう隠せない。隠したくない。これが本当の私なの。女性でも男性でもない、そんな私。この気持ちを絵に込められなかったから、魂の込もった作品が描けなかったの!」


 私は顔を上げ、涙で濡れた顔で2人を見つめた。


「ごめんね、こんな私で。理解できないかもしれない。受け入れられないかもしれない。でも、もう偽りの自分では生きていけない。本当の私を、私の全てを、さらけ出したかったの」


 陽菜と琴音は、まだ言葉を見つけられないでいた。

 しかし、2人とも私の手をしっかりと握り締めてくれていた。


「これからどうなるか分からない。私たちの関係も、私の絵も。でも、やっと本当の自分と向き合える気がする。そして、本当の自分を絵に込められる気がするの」


 私は深く息を吐いた。

 少しだけ肩の力が抜けていった。

 全てを吐き出し、大きな重荷から解放されたかのように。


 私達3人は黙って見つめあっていた。


 私の告白が、3人の関係に新たな局面をもたらしたことは明らかだった。これからの道のりは決して平坦ではないだろう。


 琴音は黙って私の手を握った。

 陽菜は混乱した表情を浮かべながらも、私の方に寄り添ってきた。


「私たち、それぞれの道を歩む必要があるのかもしれないね」


 琴音が静かに言った。

 その夜、3人は例年のように一緒に過ごすことはなかった。

 それぞれが自分の部屋に戻り、一人で夜を過ごした。


 翌日、3人は再び集まった。昨日の重苦しい雰囲気とは打って変わって、それぞれが決意に満ちた表情を浮かべていた。


「私たちの関係は特別だけど、だからこそ、お互いの成長を邪魔しちゃいけないと思う」

 琴音が口火を切った。


「うん、それぞれが自分の道を歩むことで、もっと素敵な大人の女性になれるはず」


 陽菜も同意した。

 私は静かに口を開いた。


「でも、私たちの絆は決して切れない。それだけは信じてる」


 その言葉に、陽菜と琴音は顔を上げ、私を見つめた。3人の目には、決意と不安が入り混じった複雑な感情が宿っていた。


(30歳の美月の回想)


 大学3年生。人生の岐路に立たされ、大きな決断を迫られた時期。今思えば、あの頃の私たちは、それぞれが自分の道を模索しながらも、お互いを思いやる気持ちを忘れなかった。


 画廊のオーナーの言葉は、今でも耳に残っている。「君の絵には魂が足りない」。あの時は傷ついたけど、今ならその言葉の意味がよく分かる。自分自身と向き合い、本当の自分を受け入れることができていなかったから、作品にも魂が宿らなかったんだ。


 陽菜と琴音に自分がアジェンダーであることを打ち明けた時のこと。あんなに怖かったのに、2人は驚きながらも受け入れてくれた。今思えば、もっと早く話せば良かった。でも、あの時の私には、それが精一杯だった。


 3人で別々の道を歩むことを決めた日。寂しさと不安で胸がいっぱいだった。でも同時に、新しい可能性への期待も感じていた。今なら分かる。あの決断が、私たち3人をより成長させ、絆を深めることにつながったんだと。


 アーティストとして、そしてアジェンダーの一人の人間として、今の私がある。それは、あの頃の葛藤と決断があったからこそ。そして、陽菜と琴音との絆があったからこそ。


 今、30歳になった私は、あの頃の自分たちを誇りに思う。困難に直面しても、お互いを思いやる気持ちを忘れなかった私たち。そして、それぞれの道を歩むことを選んだ勇気。


 これからも、私たち3人の物語は続いていく。距離は離れても、心は常につながっている。それぞれが成長し、また新たな姿で再会する日を、今から楽しみにしている。


 あの頃の私たちに伝えたい。「恐れないで」と。「自分の道を歩むことは、決して絆を捨てることじゃない」と。「むしろ、それぞれが成長することで、絆はより強くなるんだ」と。


 過去の自分たちに感謝しながら、未来へ向かって歩んでいこう。私たちの絆は、時間が経っても、距離が離れても、決して消えることはないのだから。

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