第3章:新しい環境と自己発見(大学1年)

 春の陽気が漂う4月、私は憧れの都会の大学へと進学した。琴音も同じ大学だけど、学部が違うから顔を合わせる機会は意外と少ない。陽菜は地元の大学でスポーツ科学を学び始めた。新しい環境に期待と不安を抱きながら、私の大学生活が幕を開けた。


 芸術学部で自分の才能を磨きながら、同時に自分自身との対話を続けていた。アジェンダーとしての自分。それを受け入れることの難しさと、でも、もう逃げられないという思い。


 大学生活が始まって1ヶ月が過ぎたころ、私はアートサークルに入部した。そこで出会ったのが、自由奔放な性格の先輩・楓だった。楓は私の才能を高く評価してくれて、積極的に交流を持とうとしてくれた。


 ある日、楓は私を誘って、LGBTQをテーマにした美術展に連れて行ってくれた。そこで見た作品群に、私は圧倒された。多様な性のあり方を表現した作品たち。それは、まるで私の心の内を覗き込むようだった。


「美月ちゃん、この作品どう思う?」


 楓が尋ねた。


「すごく…心に響きます。でも、なんだか落ち着かない気持ちにもなります」正直に答えた。

「そうかもね。自分自身と向き合うのって、怖いこともあるから」


 その言葉に、何か大切なことに気づいたような感覚を覚えた。

 自分自身と向き合う。それは怖いけど、必要なことなんだ。


 一方で、陽菜と琴音のことを考えると胸が痛んだ。

 2人に本当の自分を見せられるだろうか。

 理解してくれるだろうか。

 そんな不安が、私を苦しめた。


 ある日、放課後の大学図書館。私は美術の課題のために資料を探していた。


 本棚の間を歩きながら、ふと目に入った一冊の本。「ジェンダーとアイデンティティ」というタイトルだった。何気なく手に取り、パラパラとページをめくる。


 そこで、その言葉に出会った。


「アジェンダー」


 心臓が大きく跳ねた気がした。

 その定義を読む。


「特定の性別を持たない、または性別そのものを持たないと自認する人」


 目の前が明るくなったような感覚。

 今まで霧の中にいたのが、突然晴れ渡ったかのよう。

 手が震えていた。息が荒くなる。周りの音が遠のいていく。

 これだ。これが私だ。


 今まで感じていた違和感、自分の体への戸惑い、

「女の子らしさ」に対する居心地の悪さ。

 全てが一つの言葉で説明できた。


 椅子に座り込む。本を胸に抱きしめる。涙が頬を伝う。


 喜びか、安堵か、それとも恐れか。複雑な感情が渦巻いていた。


 まだ誰にも言えない。この発見の重みを、自分の中で消化する時間が必要だった。


 でも、確かに何かが変わった。自分自身を理解する新しい扉が開いたのだ。


 その夜、ベッドに横たわりながら、「アジェンダー」という言葉を何度も繰り返した。それは、自分自身を肯定する呪文のようだった。


 同時に、新たな不安も生まれた。これからどうすればいいのか。陽菜と琴音に話すべきか。社会はこの私を受け入れてくれるのか。


 でも、それでも。初めて自分の居場所を見つけたような安心感があった。


 その夜、私は長い間、眠れなかった。でも、それは苦しい不眠ではなく、新しい自分との出会いに胸を躍らせる、希望に満ちた目覚めだった。



 夏休みが近づいてきた頃、3人はようやく再会の機会を得た。陽菜の地元で待ち合わせをした時、私の心臓は高鳴っていた。


「2人とも、なんだか大人っぽくなったね」陽菜が嬉しそうに言った。

「陽菜こそ、すごくたくましくなったわ」琴音が優しく微笑んだ。


 私は言葉少なに頷いただけだった。本当は、たくさん話したいことがあった。でも、言葉にできなかった。


 3人で地元の海へドライブに出かけた。車を運転する陽菜、助手席で地図を見る琴音、後部座席で景色を眺める私。何気ない会話を交わしながらも、私の心の中では言葉にできない想いが渦巻いていた。


 夕暮れ時、3人は誰もいない浜辺に腰を下ろした。潮風が髪をなびかせる中、沈黙が流れた。


 突然、陽菜が立ち上がり、海に向かって叫んだ。


「もう、我慢できない!」


 その言葉に、私は驚いた。そして、自分も同じ気持ちだということに気づいた。我慢できない。もう、隠せない。


 陽菜は自分の悩みを打ち明けた。スポーツ推薦で入学した彼女を、周りの学生たちは特別視していたこと。勉強とスポーツの両立に苦しむ日々。誰にも本音を話せない孤独感。


 その話を聞きながら、私も自分の気持ちを話そうと何度も思った。でも、言葉が出てこなかった。


 その夜、3人は再び愛し合った。でも、以前とは何かが違っていた。私の中にある葛藤が、完全な解放を阻んでいるような気がした。


 翌朝、3人は朝日を浴びながらテラスでコーヒーを飲んでいた。


「私たち、これからどうする?」陽菜が尋ねた。

「それぞれの夢を追いかけながら、でも、この絆は大切にしていきたいわ」琴音が答えた。


 私はうなずいただけだった。本当は、もっと言いたいことがあった。でも、まだその勇気が出なかった。


 3人の前には、まだ多くの困難が待ち受けているだろう。でも、この絆があれば乗り越えられる。そう信じたかった。でも同時に、本当の自分を受け入れてもらえるだろうかという不安も大きくなっていった。


(30歳の美月の回想)


 大学1年生。新しい環境の中で、自分自身と向き合い始めた時期。今思えば、あの頃の私は、まだ自分の殻の中にいたんだと思う。


 楓先輩との出会いは、私にとって大きな転機だった。LGBTQをテーマにした美術展に連れて行ってもらったあの日のことを、今でも鮮明に覚えている。あの時初めて、自分だけじゃないんだと感じた。でも同時に、大きな不安も感じた。


 陽菜と琴音との再会。あの時、もっと素直に自分の気持ちを伝えられれば良かった。アジェンダーとしての悩み、アーティストとしての夢、そして2人への複雑な想い。全てを。


 でも、そうできなかった自分を責めるつもりはない。あの頃の私には、それが精一杯だった。そして、その経験が今の私を作っている。


 浜辺での陽菜の叫び。あの時、私も叫びたかった。「私も我慢できない」って。でも、声に出せなかった。今なら分かる。あの時、3人とも同じように苦しんでいたんだということを。


 その夜の出来事。愛し合いながらも、どこか距離を感じていた。今思えば、それは自分自身との距離だったのかもしれない。本当の自分を受け入れられていなかったから、完全に2人と繋がることもできなかった。


 翌朝のテラスでの会話。「それぞれの夢を追いかけながら、でも、この絆は大切にしていきたい」という琴音の言葉。あの時、私ももっと自分の気持ちを伝えるべきだった。


 今、30歳になった私は、あの頃の自分に言いたい。「怖がらなくていいよ」って。「陽菜と琴音は、きっとあなたを受け入れてくれる」って。「そして、あなた自身も、自分を受け入れていいんだよ」って。


 大学1年生の私は、まだ自分の殻の中にいた。でも、その殻を少しずつ破っていく勇気も持ち始めていた。その小さな勇気が、今の私につながっている。


 アーティストとして、そしてアジェンダーの一人の人間として、今の私がある。それは、あの頃の葛藤があったからこそ。そして、陽菜と琴音との絆があったからこそ。


 これからも、私たち3人の物語は続いていく。そして、その物語の中で、私はもっと自分自身と向き合い、そして2人ともっと深く繋がっていくんだと思う。それが、あの頃の私たちに出来る最高の恩返しなのだから。

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