第50話

 今から引き返そうか迷ったのだが、俺はこのまま滝まで向かうことに決めた。鯉を見ると、一生懸命に川をさかのぼっている。


 その姿から、勇気をもらえた。


 俺は一人うなずいて、茂みをかき分けていく。


 一歩一歩に気をつけながら、耳を澄ませて気配を探りながら、なおかつ足元や周りに気を付けて歩くのはけっこう大変だ。


 夏の夜の、しっとりと水分を含んだ空気がまとわりついてくる。普通にしていればそれほど暑くないのに、気を張り詰めているせいで汗をかいていた。


 月がどんどん空高く昇っていく。


 塩原の気配を見つけられないまま、山の奥の滝に着いてしまった。


 岩が段々畑のようになっていて、人間だったらすぐに登れるようなものだ。だが、小さな滝といっても、それでも数メートルある。


 ごおごおと水の流れる音が強まる。そちらに向かって歩いていき、提灯の灯りで滝を照らしたあと、俺は絶句していた。


「……!」


 ――鯉だ。


 上から落ちてくる水をものともせず、たくさんの鯉が滝つぼに集まってきている。みんなが滝の上を目指して岩場を登ろうとしていた。


 手足のない鯉にとっては、それは究極の難関に違いない。


「うそだ」


 階段状の岩と水の間に、何匹もの鯉がいた。


 短冊舟を咥え、落ちてくる水に必死で抵抗しながら登っていく。


「そんな……こんなこと……」


 灯りを滝つぼに向けると、そこにいた鯉たちはぴょんぴょん飛び跳ねて滝に登ろうとしている。突き出た岩にひっかかれた鯉だけが、更なる上を目指していた。


 それでも、水の勢いに飲まれてまた滝つぼへ鯉は落ちていく。


 次から次へ登り、落ち、水にのまれ、他の鯉を巻き添えにして滝つぼに戻ってしまう。


「…………」


 その光景は、神秘的という言葉さえ陳腐なものに思わせてしまった。


 言葉なんか出てこなかった。なんて表現していいのかわからないが、ただただ鯉たちは神々しく、胸の中の感情を膨張させる。


 たくさんの鯉が途中まで登って、滝の水に押し流されて落ちていくのを見ていた。ただただ、見ていることしかできなかった。


「願いを届けようとしてくれているんだ……ありがとう」


 たった一年間だけ育てた鯉が、あんなに必死になっている、鯉たちが命を張ってまで俺たちの願いを背負っていく。


 気づかないうちに、俺の目頭は熱くなっていた。


 傷つきながら奮闘する彼らから、一瞬たりとも目が離せなかった。


 胸の中を満たされていくものがあると同時に、もどかしさや疑問が沸いては消えていく。


 助けてあげたいと心の底から思ったが、しかし、手を出してはいけないのだと直感的にわかっていた。


「頑張れ……頑張れ」


 少しでも鯉たちの力になりたくて、祝詞を何度も唱えた。


 みんなの願いが一つでも多く叶えばと手を合わせる。鯉が滝つぼに落ちていくのを見るたびに、自分の身体が痛むような気がした。


「お願いだ。どうか願いが……みんなの願いが……!」


 鯉たちは何度滝つぼに戻されようとも、くじけるそぶりはない。岩にぶつかって怪我をしても、一向に滝登りをやめようとしなかった。


 ――カシャッ。


 カメラのシャッターの音が聞こえて、目が覚めた。


 どうやら疲れて寝てしまっていたようだ。


 携帯電話を探したが、持ってきていないことを思い出す。木々の間から月を確認し、明け方の四時近くだとわかった。


 夜の虫の鳴き声がしない。呼吸を整えると、もうちょっとで活動を開始する生き物たちの気配を感じる。


 空は朝日を迎え入れる準備を着々と進めている。


 西の空に白い星が一つ輝いていて、夜にまだ行くなと言っているようだ。


 ――カシャカシャッ


 連続で音が聞こえてきて、俺は茂みからゆっくり身体を起こした。


 音のした方を見ると、塩原が滝つぼにずかずか入っていくのが見えた。


「すげぇな。なんなんだよ一体……!」


 カメラで鯉たちの姿を連射しながら、塩原は滝つぼを横切るようにして歩いていく。


「なにしてんだよ。あのおっさん!」


 俺が立ち上がったところで、塩原が歓声をあげた。


「お前が龍候補か!」


 その声は夜明け前の空気に大きく響いた。


 塩原はカメラをしまうと、滝をよじ登り始めた。彼の視線の先を見て、俺は息を呑んだ。


 頂上まであと二、三メートルのところに一匹の鯉がいる。


 その一メートル下にも二匹が泳いでいた。


「捕まえてやるぞ、今すぐに」


 塩原の手には、しっかりと網が握られている。


「やめろ、塩原さん!」


 俺は茂みから飛び出して滝つぼに入った。塩原が、びっくりしたような顔になる。どうやら、俺がついてきていることに気付いていなかったようだ。

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