第49話
「やめろ!」
俺はたまらず大きな声を出した。
パッと、ライトの光がこちらに向けられる。思わずまぶしくて目をつぶった。
「鯉に危害を加えるな!」
彼の舌打ちが聞こえた気がした。近づいて話をしようとしたのだが、突然塩原はヘッドライトを消す。
まぶしかったのに急に暗くなったせいで、俺の目は混乱してなにも見えない。
「話をしましょう。塩原さん、出てきてください」
「ついてくるな!」
快く応じてくれるはずもなく、塩原はライトを消して暗闇に紛れてしまった。
つまり俺はその場で彼を見失った。
「……くそ。山の中で隠れるとか最悪だな」
耳を澄ませていれば、塩原が発する音を聞き取れるかもしれない。しかし時々風が強く吹くため、その音に紛れるように動かれたらどうにもできない。
「灯りは消さないほうがいい。獣が出る。塩原さん、話をしましょう!」
しかし、俺の声に塩原は応答しない。提灯の灯りをつけているから、相手からは俺の姿が見えているはずだ。
きっと近くにいると思って何度も声をかけたのだが、塩原が姿を現す気配はなかった。
「進むしかないか……」
このまま引き返してくれていたらいいのだが、あの装備を見る限りそんなことはしないだろう。
あきらめないと言っていた塩原の声が、耳の奥で聞こえてくるようだった。
俺は上流を目指すことにした。
おそらく、川岸を目印にしながら塩原も滝まで向かっているだろう。その前に止めて連れ戻せたらいいのだが、と考えながら俺は足元に気をつけながら歩いた。
上流へ行くにつれて、だんだんと岩がごつごつして大きさを増していく。
真っ暗な中に浮かび上がる岩々は、今にも動き出すんじゃないかと思うような迫力がある。
何度も遊んでいる場所だとはいえ、真っ暗闇の中を来たことはない。晴れた明るい時の記憶をたどりながら、今現在どの場所に自分がいるのか頭の中の地図で確認する。
ざあざあと水の流れる音は心地好いが、そのおかげで塩原の気配を完全に消してしまっていた。
塩原が明かりをつけてくれたらいいのだが、おそらく意地でもしないだろう。
「最悪だ……」
あたりは蛍が飛び交っている。そのほんのりとした灯りに少しでも塩原の姿が浮かび上がらないかと目を凝らしたのだが、ちっとも彼は姿を現さない。
川べりを歩いていくと、いくつもの平べったい石が無造作に積み重ねられている。
おそらく子どもたちが積み石をして遊んだのだろう。それらを崩さないように気をつけながら、足元を提灯で照らしつつ歩いた。
川の中を、俺と同じくらいの速度で泳いでいる鯉たちの姿が見える。
彼らがこんなに必死になって泳ぐのを見るのは初めてだ。
本当にそれは、奇跡的な光景だった。
「絶対に塩原を止めないと……」
どうしても叶えたい願いががあるのは、きっと誰でも一緒だ。
塩原がしていることはルール違反だ。草を掻き分ける音が聞こえてこないか、必死で耳を澄ませていた。
ガサガサ、と音がして俺はとっさに明かりを向ける。
「……鹿か」
木の脇から出てきたのは塩原ではなく、雌鹿とその子どもだ。子どもたちの大きさは今年生まれたに違いない。
母親は怒ると恐ろしいので、下手に刺激しないほうがいい。俺がじっとしていると、鹿たちはすぐに山の中に消えていった。
「塩原さん、そろそろ出てきてください」
呼びかけた俺の声は、むなしく山の奥へ消えていく。返事を待ったが、返ってこない。
虫の声が耳に痛いくらい響いていた。夜行性の鳥たちが鳴いている。気づいていないだけで、夜行性の獣たちもきっと近くにいるだろう。
村の山に慣れていない人が、こんな暗い中を歩くのは危ない。携帯電話を持っていないから救助だって遅れてしまう。
汗が頬を伝った。このままじゃ、塩原を見つけられないかもしれない。もしかして、すでにどこかで怪我をしていたらと考えると、不安にもなってくる。
焦りが恐怖の皮をかぶってやってきた。俺は首を横に振ると、怖い気持ちを追い払う。
なにか楽しいことを考えようとして、一番によみがえってきたのが屋上でみんなと一緒に見た夕焼けの景色だった。
夕日がきれいすぎて、やぶけて溶けてしまいそうだった。隣にいた茅野の赤く染まった瞳がキラキラしていたのを思い出す。
五人で見た夕日は、今まで見た中で一番きれいだったんだ。
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