第48話

 塩原が辺りを見回す。こちらは低木の陰に隠れているから、彼からは姿が見えないはずだ。


「なんでこんなどうでもいい村人たちの願いのほうが優先されて、俺の願いが後回しにされるんだよ」


 吐き捨てるようにつぶやいた声は、恨みにあふれている。俺はその声を聞いた瞬間、湧き上がる怒りでなにも聞こえなくなりそうだった。


「おかしいだろ、そんなの」


 突然、塩原の顔が本気になった。


 鯉の去っていった方向をじっと見つめると、川岸を歩いていく。そしてそのまま、姿が見えなくなった。


「成神くん、どうするの?」

「どうするって……」


 どうしたらいいんだ? 俺の頭の中は混乱していた。


 写真を撮ったこと、録音をしたこと、村人の願いをバカにしたこと。


 そのすべてに怒りを感じていたため、思考が追い付かない。怒っているのを抑えていた証拠に、俺の手は震えていた。


「塩原さん、上流に向かったよ。鯉を、追いかけていくんじゃ……」


 茅野が心配そうに俺を覗き込んできた。


「まさか。禁止されていることをするわけがない。大人なんだから――」

「大人とか子どもとか、関係ないよ!」


 茅野が珍しく語気を強めた。


「塩原さんは、滝をのぼった鯉を捕まえて、自分の願いを叶えさせようとするんじゃ」

「そんな……」

「追いかけなきゃ。止めなくちゃだよ! 成神くん!」


 そんなバカな、と言いたかったが言えなかった。


「願いが潰されてしまうかもしれないよ。成神くんってば!」


 塩原はきっと鯉が滝をのぼるのを見に行くだけだよ、とは言えなかった。茅野は俺の腕を掴んで揺すった。


「本気になったら、人間ってなりふり構っていられなくなるものだよ」


 誰かに報せなくちゃ、と茅野が立ち上がる。


「待って茅野。おおごとにしたらダメだ」


 村のみんながどんな気持ちで鯉に願いを託すのか、俺はわかっているつもりだ。


 一年間、村人たちは鯉神様と向き合って神様と心を通わせ、日々の行いを正しながら清く生きていく。祭りの、一時間にも満たない祭事のために。


 伝統と信仰を重んじることが日々の生活に染みついているからこそ、それを壊されようとすることへの反発は大きくなるに違いない。


 塩原が鯉を捕まえようとしたなどということが知れ渡れば、村人たちの怒りはとんでもないことになる。


「塩原の安全のためにも、ほかの人に言っちゃだめだ」

「じゃあ、上杉くんに……」


 俺は首を横に振った。


「あいつが知ったら、よりいっそうとんでもないことになるから」

「それなら琴ちゃんは?」

「鯉を追いかけるのは禁止されている。もし川田が追いかけていったのが知れたら、川田家自体が重い責任を取らされる可能性がある」


 どうするの、と茅野は泣きそうな表情になった。


「……俺が塩原と話をつけてくる」


 俺ならば、鯉を追いかけたとしても理由をつけられる。


 神事の一環だとでも言えば、たとえそれが嘘だとわかっていても、強く罰せられることはないだろう。


「茅野はみんなと合流して、待っていて」

「私も一緒に行く」

「危ないから」


 茅野は納得しかねている様子だったが、俺は彼女の肩に手を置いた。


「大丈夫。誰の願いも潰させない」


 早くしないと、塩原を見失ってしまう。俺が行こうとすると、茅野が俺の腕にしがみついてきた。


「絶対戻ってきてね」

「もちろん」


 提灯を手に持つと、俺は懐に入っていたマッチで火をつける。


 茅野を明るいところまで送っていくと、俺は塩原を追って夜の川岸に戻った。



 *



 ――早く塩原を見つけないと。


 鯉たちに危害を加えないとは限らない。撮った写真がSNSで広がるともわからない。


 茅野には大丈夫だと言ったけれど、正直、本当に大丈夫かどうかは疑わしい。


 俺は辺りをきょろきょろ見回しながら塩原を探した。


 土地勘のない塩原からすれば、俺のほうが有利だ。幾度となく遊んだ川辺を歩き、山の中を進んでいく。


 塩原の持っていたペンライトの光を探し、必死に暗闇で目を凝らした。


 空に浮かんだ月が、雲間から顔を出した。欠けていても、あたりが暗い中での月光は驚くほど明るく感じる。


「あっ……!」


 木の茂みに近い所で、塩原の姿を発見した。


 彼の腰には黄色と黒の縞模様のロープが吊り下げられている。それはつまり、川を上流まで歩いていく準備をしてきたということだ。


 俺は密かに塩原がよこしまなことを考えていないことを祈っていた。茅野に、杞憂だったよって笑いながら報告したかったから。


 しかし、どうやらそう上手くはいかないらしい。


「まさか、本当に鯉を捕まえるつもりじゃないだろうな?」


 冷や汗をかきそうになったのは、塩原の腰のベルトには魚とりの網が用意されていたからだ。


 明らかに、鯉たちに妨害行為を企てているようにしか思えない。


 だが塩原は俺がついてきていることに気づいてはいないようだった。


「おいおいおいおい。本当に鯉が上流に向かっているよ。なんだよ、これ」


 塩原は大きな独り言を言いながら、バシャバシャと鯉たちの写真を撮る。ペンライトはしまったらしく、被った帽子の上からヘッドライトをつけていた。


 塩原が川の中をライトで照らすと、川を泳いでいく鯉たちの姿が浮かび上がる。


「こりゃたまげた……特大スクープだ」


 塩原は感心したように鯉たちを見てから、足元にあった小石を川の中に投げ入れた。鯉がぴちゃりと跳ねる。

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