第47話



 *



 鯉の放流が終わると、村長の一声で盆踊りの準備が進められる。


 古墳脇の広場に小さな櫓が建てられており、みんなはそちらにぞろぞろと移動していった。


 村人たちを見送りながら、俺は自分の鯉のところまで戻る。


 実は、自分の願いを短冊に書くのも放流するのも、まだしていなかったのだ。最後の最後にそれをしたくて、あえて放流をしていなかった。


 家族には事前にそうしたい旨を伝えて了承してもらっている。


「蒼環ー? 先行くわよー」

「片付けたら行く」


 俺は盥の横に提灯を置いて座り込み、短冊舟を取り出した。


「さてと……」


 鯉を見ると、早くしてほしいと言わんばかりに元気にしている。はねた水が顔にかかった。


「決まっているんだ、俺の願いは」


 鯉に話していたところで足音が近づいてきた。振り返ると、声をかけていいのか迷っている様子の茅野が居た。


「成神くん、隣に行ってもいい?」


 どうぞ、と俺は横を指し示す。茅野は笑顔でやってくると隣に座り込んだ。


「まだお願いをしていなかったんだ?」

「そう。茅野はちゃんとお願いした?」


 彼女が嬉しそうに頷くのが見れて、俺は斎主をやって良かったなと安堵した。


「ありがとう。参加させてくれて」

「これで茅野も、村の一員だな」


 俺は短冊舟に『この村の人々が、いつまでも平和で幸せに暮らせますように』と願いを込める。


 そして、短冊舟を鯉の入っている盥に入れた。


 いつもなら健康とか病気をしないとか適当な願いをしていたけれど、今回は叶ってもらわないと困る。


「茅野、鯉の放流も手伝ってくれる?」

「いいの?」

「茅野に手伝ってほしいんだ」


 彼女と一緒に盥に入っている鯉を覗き込む。茅野は鯉を見ると、両手を合わせた。


「……成神くんのお願いが、どうか叶いますように……」


 彼女の呟きを聞くと胸が熱くなる。


 言葉にならなくて、俺はぎゅっと唇を噛んだ。彼女が祈り終わったところで、俺は桶を持って立ち上がる。


「流そう。一緒に盥を持って」


 川の中にざぶざぶ入っていくと、茅野は水の冷たさに驚いていた。真ん中より少し手前まで入り、そしてそうっと盥をかたむけて鯉を流す。


 美しい色をした俺の鯉は、尾っぽで水をぴしゃんと撥ねてかけてきた。そして、短冊舟をくわえると一目散に上流へ泳いでいく。


 俺たちは再度、鯉神様に向かって両手を合わせていた。


 もしかしたら、今さら祈ったって遅いかもしれない。


 今まで心血を注いで来ていなかったから、今度は神様が俺のことを蔑ろにするかもしれない。


 それでも。


 ――どうか、村人たちに平和と安寧を。


 心の底から願わずにはいられなかった。


 提灯の明かりを消すと、辺りはほとんど暗闇に包まれる。広場の灯りが目に痛いくらいにまぶしく見えるのは、それくらい村全体が暗いからだ。


 蛍たちが舞っている中、俺と茅野は川で足を冷やしながら無言で座っていた。夏休み初旬、みんなで川遊びをしたのを思い出す。


 まるで遠い思い出のようだが、たった数日前のことだ。


 神事の準備をしてみんなと合流できなかった間、みんなはどうしていただろうか。それを訊ねようとした時、ガサガサと草を踏む足音が聞こえてきた。


 俺は素早く茅野の手を握る。茅野も驚いたようで、俺のほうに身を寄せてきた。


 突然、白いライトの灯りがついた。


 放流中は提灯の灯りしか使わないから、無機質な光に違和感を覚える。


 目を細めながらそちらを見ると、光源はどうやら小さなペンライトのようだ。


 手に持っていたそれを耳に乗せたらしく、うっすらとその人物の顔が見える。


「――塩原さん……」


 俺の呟きに、茅野が驚いたように肩を震わせた。


 なにやら嫌な予感がする。


 茅野に先日、塩原に気を付けるようにと忠告されたばかりだったからかもしれない。


「へぇ。こりゃすごいや……」


 塩原は俺たちには気づいていないようで、首から下げたカメラで撮影したデータをチェックしているようだ。


「本当に、鯉が川上に向かってる」


 神事の最中は、撮影も録音も一切禁止だ。


 それどころか、村人であれば携帯電話もカメラも持って来ないのが普通だ。なぜなら鯉の放流は門外不出で、厳重な箝口令の元で行われる村の伝統だから。


 よこしまな気持ちで参加してはいけないのだ。

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