第51話

 彼のヘッドライトに気を取られているうちに、塩原は岩場に足を引っかけて一段上がった。


「ついてきていたのか。君も随分しぶといな!」

「当たり前だろ!」


 頂上に近い鯉を見ると、すでに身体はぼろぼろだ。


 尖った岩にぶつかり、何回も転げ落ちたせいで、体中から血がにじみ出ている。それでもまだ、鯉は登り続けようとしていた。


「まさか!」


 その鯉には見覚えがあった。


 いくつも色が入った、特別美しい鯉……俺は、それを自分の家で育てていた。


 もう一度確認する。そして今度こそ間違いないと感じた。


「俺の鯉……俺の鯉だ……!」


 俺は必死になって塩原のあとを追った。


 じゃばじゃばと水をかき分けて進むと、斎服が急激に重たくなる。当たり前だが、もともと重たいうえに水を吸ったせいだ。俺の動きは途端に鈍くなった。


 悪戦苦闘しているうちに、塩原はどんどん岩場をのぼっていく。


 間に合え、自分。


 お願いだから、間に合ってくれ。


 俺はなりふり構わず岩に飛びつくと、鯉に手を伸ばしかけていた塩原に飛びかかった。


「やめろって!」


 俺は塩原を必死で岩に押さえつけたが、彼は俺の手をどけようと暴れる。


「なんだよ急に、成神蒼環!!」


 上に伸ばそうとする塩原の手をひねり上げる。彼は痛そうな顔をしたが、かまわず腕をきつくねじり押さえた。


 滝の水が容赦なく降り注ぐ。その間に、鯉は上へ登っていった。


「蒼環くん、君は祭りにも鯉にも興味なかったんじゃないのか!?」

「そうだよ、今まではな。でも、もう違う」


 鯉の身体には血が滲んでいる。ぼろぼろになった尾ひれ。鱗のはがれた脇腹。


 それでも鯉は俺の願いを乗せて登る。


 そうだ。俺の鯉は、大切な願いを叶えるために、必死になって生きてくれている。


「いまさら都合がよすぎると思わないのか? だったら初めから、大事にしていたら良かったじゃないか!」


 塩原の声は、滝の音に半分かき消されながらも俺の耳に届いた。水の圧力を利用し、塩原がうまく俺の手から自身の腕を引っこ抜いた。


「君は間違っている、蒼環くん!」

「そうだよ。だから向き合うんだ、今から!」

「遅い。君たちの村の山は消える。田畑も、自然も、伝統も!」

「遅くない」


 俺は塩原の腕を再度掴んだ。


「遅くない! 気づいた時にやり直せばいい。何度だって、人はやり直せる!」


 塩原はムッとしたあとに滝の頂上を見た。


 もう鯉はてっぺんに近い。


「そう言えるのは、君がまだ未来のある子どもだからだ」


 塩原は俺の手をものすごい力で振り払うと、腰に引っ掛けてあった網を手に持つ。俺は体勢を崩してしまい、慌てて岩にしがみついた。


「僕にはもう、これしか望みがない」


 塩原は、網を鯉に向けて放った。俺が必死に止めたため、網は目標からずれて手前の岩場に引っ掛かる。


 その一瞬の隙をついて、塩原に体当たりした。斎服が破ける音とともに、腕を岩が割いていく。痛みをこらえていると塩原が俺を蹴飛ばした。


「わっ!」


 俺の身体は滝の斜面に向かって弾かれたが、寸前で網に手を伸ばして落下を逃れた。腕をぶつけたため、じんじんしてくる。


 痛みととめどない水圧に、今にも水に流されそうだ。俺は必死で網を掴みながら鯉を探す。


 ――いた。無事だ。


 身体を上手く支えながら岩に掴まろうとしたが、しかし。


「人生はやり直しがきかないんだよ、蒼環くん。じゃあね」


 塩原の声にハッとすると、彼は俺が掴んでいた網を岩場から外した。それに掴まっていた俺は、一瞬で支えを失う。


(落ちるっ!)


 目をつぶった。身体が一瞬、宙へ舞った。


 落ちる覚悟をしたのだが、身体を思い切り岩肌にぶつけた。あまりにも強く背中を叩きつけられて、声の代わりに空気が漏れた。


 目を開けると、網は先ほどよりも一段下の岩場に引っ掛かっていた。滝つぼに落ちなかったのは、運がいいとしか言いようがない。


「日頃の行いがいいのかな、蒼環くんは」


 水に触れていてもぶつけた背中が熱を持っているのがわかる。痛みがひどくて、声を出すことができなかった。


 俺たちがそうやってもつれ合っていたその間、鯉は目標から目をそらすことなく頂上を目指して登っていた。


 塩原は岩を一段だけ降りてくると、俺の身体を支えている網を、引っ掛かっている岩からまたもや取ろうとした。


「やめろ、塩原さん。願いを潰しちゃダメだ」

「うるさいな! 僕の願いのほうが大きくて崇高だ」

「それを決めるのは、あなたじゃない!」


 岩で傷ついた腕が限界だった。片足を岩に乗せることができたが、それでもつらい。


 もうだめだ。目の前を、傷ついた鯉が一匹、二匹と水をかき分けていくのが見える。勇気がふつふつと湧き上がってきた。


 ここであきらめて、どうするんだ。


 なにかいい方法はないか考えた時、斎服の隙間に笏をはさみ入れておいたことを思い出した。


 無理な体勢に体中が軋んだが、俺は必死に笏を見つけようと着物の間に手を伸ばす。


 笏の感触を、冷たくなった指先がたしかに捉えた。

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