第43話
俺は念のため茅野を起こす努力をしてみたが、案の定彼女は起きなかった。
「じゃあな。ついでに茅野の家まで送ってってやったら?」
「冗談じゃない」
「無理すんなよ、しっかり寝ろよナル」
俺は上杉に見送られながら、茅野をおぶって歩き始める。途中、何度も茅野を担ぎなおした。どうやら全身の力が抜けるくらい、安心して寝ているらしい。
「……ねえ、茅野。たまには最後まで起きてろって。茅野が起きてないと、つまんない」
寝ている茅野に話しかけても、答えなんか返ってこないのはわかっていた。
「最近楽しい? 疲れているみたいだけど、なにかあった?」
むしろ、静かな沈黙が通り過ぎていく。だから、これは、俺の独り言だった。
「電話してって言ったのに、一回もかけてこないね。それは、俺も一緒だけど……頼りがいがないかな?」
上空を見上げると、伸びた背骨がボキッと音を立てた。
空にはたくさんの星が輝いている。
時間はこうしてどんどん迫って過ぎていく。山裾に半分沈んでしまった夕日を、俺はじっと見つめた。
「そんなに早く沈まなくたっていいじゃないか。意地悪だな」
夕日に文句を言ったって無駄だけど、なぜかそうせずにはいられなかった。
「ほんとは寂しいよ、茅野。なくなるってわかって初めて、大事なことだって気づくなんてね」
最初で最後の斎主としての祭りになるかもしれない。それを思うと、胸が痛かった。
「どうにもできない自分が、悔しい」
大人だったら止められただろうか。
お金があったら、土地を買い戻せただろうか。
この村がもともと人気の観光地だったら、開発なんて起こらなかっただろうか。
俺は息を深く深く吐いた。
歩き始めていた足を止めた。下を向いた。
「なんにもできない……」
言葉にしてしまったら、急に目の奥が熱くなった。泣くもんかと涙をこらえていると、頭ががんがんした。
滲んだ視界を遮るためにまぶたを閉じた。
「なにもできなくて悔しい。後悔したくないのに」
熱いものが俺の頬に触れてきて、はっとした。
「……成神くん大丈夫?」
後ろから、小さな声がした。
「起きた、茅野?」
茅野が俺を見ようと首を伸ばしてくる。俺は覗き込まれないように、頭を振った。
「ねぇ、泣いてたの?」
「まさか」
強がったけど俺の声はほんのちょっとだけ震えていた。茅野が俺の首をぎゅっと締め付けるようにしてくっついてくる。
「……あのね。父さんと話をしてみたの。どうにか護岸工事はなしにできないかって」
耳元で茅野がしゃべり始めた。
「ごめんね、成神くん」
ごめんね、と再度茅野が謝る。
彼女が冷遇されているという塩原の言葉を思い出した。きっと父親と話すのに、相当な覚悟が必要だったに違いない。
「謝るなよ。むしろ、お父さんと話してくれてありがとう」
「なにもできなくてごめんね」
気がつけば、わかれ道の山の麓に来ていた。
俺は、ピタッと立ち止まった。
「予定のフライングだけど、ちょっと星見に行こう」
「え?」
「俺、これから祭りまで忙しくて、遊ぶ予定に参加できないから」
有無を言わせず、俺は茅野をおんぶしたまま短冊山のほうへ歩き始める。
山と名前がついているが、その実態は古墳だ。ふもとまで来ると茅野を下ろし、俺たちは手を繋いで傾斜のある草むらをのぼった。
「ほら、茅野――見て」
「わぁ……っ!」
文句のつけようもない、満天の星空。
町から離れた山に近い場所なだけあって、天の川は美しく見える。
きれいに輝く星が、いくつもピカピカと光っている。
「わかる? あれが織姫で、こっちが彦星だ」
暗いドームの天井に写された偽物の星より、こっちのほうが何万倍もきれいだ。
宇宙からの光が、俺たちの目を通って体内に入ってきている。
夜空は星と月のステージだ。
「あれがさそり座。赤いのがアンタレスだ」
見上げ続けていたから首が痛くなってきた。首をいたわるように下を向いたとき、茅野に手を引っ張られて、俺は芝生に膝をついた。
幸いにも草なのでそれほどダメージはない。茅野はその場にちょこんと座って、星を眺めている。
「成神くん、あっちの星は?」
「あれは、こぐま座」
俺があおむけに倒れると、茅野も隣で倒れこんだ。
目を開けると視界いっぱいに瞬く星たちが見える。雲もなくて、絶好の星座観察日和だ。
「あっちがアンドロメダ」
茅野は俺の説明を、目をきらきらさせて聞いていた。
「こんなにきれいなんだね……ちっとも気づかなかった」
「暗いほうが、星はきれいだよ」
空を指さした俺の手を、茅野がぎゅっと握ってきた。
「闇の中でしか星は見えない。晴れて明るかったら見えないから」
繋いだ手を、俺はぎゅっと握り返した。
温かいものが流れる感覚。脈打つ感覚。少し汗ばんだ、熱のある肌の感覚。全部、俺の手の中に納まった。
「未来が暗かったとしても、輝くものが見つけられるかもしれないよな」
茅野がこっちを向いてくる。
「俺も、あきらめない」
茅野の目に映りこんだ星が、信じられないくらい輝いていたのを、俺はたぶん一生、忘れないと思う。
「あっ……蛍」
視界に映った黄色い光に、茅野はあわてて飛び起きた。
「蛍がいる!?」
「蛍くらいいるさ。いっぱいね」
もう少ししたら、もっとたくさん見られる。そこでじっと待っていると、だんだん黄色い光が増えてきた。
「こんなに、たくさん……!」
茅野は嬉しそうに辺りを見回している。そのうち、彼女の服や腕にも蛍がとまった。
「すごい、すごいよ成神くん! 初めて本物の蛍を見たよ! 天の川も、星座も、織姫と彦星も!」
「良かったな」
「生まれて初めてを、今日いっぱい経験したよ!」
茅野が再度俺の手を握ってくる。
「成神くんと、初めてを共有できて嬉しい……ありがとう!」
俺は、コロコロ変わる彼女の表情を見るのが好きだ。
名前をいっぱい呼んでくるのも、駆け出してぶつかってくるのも。安心しきって寝ちゃう姿も、見上げてくる彼女の目が、いつもキラキラまぶしいのも好きだ。
「どういたしまして」
この時、俺は生まれて初めて自分の鯉に願いをかけようと思った。今までのどうでもいいような願いじゃなくて、真剣なお願いだ。
――どうか、村人がこの先も平和で暮らせますように。
茅野を含む、すべての村人たちの平和と安寧を、心の底から願うことができた。
だから……鯉よ。
どうか俺の願いを乗せて、天高く飛んでくれ。
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