第五章

第35話

 文月が始まった。


 その日の早朝、短冊祭りに向けて祭礼が成神家で行われた。


 事はじめの儀式で短冊山に向かってお神楽の奉納舞をし、祝詞を奏上する。これを皮切りに、短冊祭りまでの毎朝、祭事を斎行しなくてはならない。


 これが始まると、やっと本格的な夏を感じる。


 俺はこの日初めて、神事の中で髪の毛を切ることになった。


 毎年伸ばしていたものの、結局使ったことは一度もない。いつもは斎員だったので、祭りが終わってから普通に美容室で切っていた。


 しかし今年は、親父に代わって俺が斎主だ。


 一年伸ばした髪の毛を、願いを叶えてくれる鯉神様への対価として捧げる。


 根元をきつく縛った髪の束を剃刀で落とした時に、迷いもなにもかもが消えたような気がした。


「蒼環、お疲れ様」


 神事が終わると、親父がニコニコしながらやってきた。


「すっきりしただろう? そのままだと不格好だから整えてあげるよ」


 親父の髪の毛をいつもは母が整える。去年まではそれを横目で見ていただけなのだが、今年は整えられる側だ。それがなんだか不思議だった。


 晴れていることもあって、俺と親父は縁側から外に出た。散髪ケープを身に着けて椅子に座ると、親父がすきばさみを持ってチョキチョキ切り始める。


「懐かしいなぁ。大昔、父さんも爺さんの髪をこうやって切ったもんだ」

「短くしすぎない程度にしてくれる? 来年も使うから」


 チョキン、とハサミの切れる音がする。


「来年も……そうだね」


 親父はそれ以上なにも言わず、髪をきれいに整えてくれた。


 散髪が無事終わったところで、携帯電話のメールをチェックする。新着メールが一件届いていた。


 差出人名を見ると、俺は立ち上がってキッチンまで行く。昼食の準備をしていた母は、さっぱりした俺の姿を見ると満足そうに笑って頭を撫でてきた。


「やっぱり蒼環は男前ね。でも急に斎主やるだなんて、母さんびっくりしたわ」


 びっくりしたと言いつつも嬉しいのだろう。母の目の奥には安堵の色が浮かんでいた。


「色々あって。それより、ちょっと出かけてくるから」

「お昼は?」

「いらない。わたなべ食堂行ってくる」


 言い残すと、俺はチャリンコに乗って走り出した。じめっとした生ぬるい風がまとわりついてくる。その不快感を払しょくするように、立ちこぎをして全速力で目的地に向かった。


 家から十分もしない『わたなべ食堂』に到着すると、店の脇に自転車を停めた。軒先の色あせた店舗テントの横には、鯉が描かれている風鈴がつけられている。


 ガラスの引き戸をガラガラ開けて中に入ると、扇風機の風で涼んでいた男が笑顔になった。


「蒼環くん!」


 俺は扉を閉めると、奥に向かって「おばちゃん、定食二つ」と声をかけて男の前に座った。


「君から誘ってくれるなんて、いったいどういう風の吹き回しだい?」

「お久しぶりです、塩原さん」

 そう。俺は塩原と話すべく、彼を呼び出していた。




 出された定食の一つは、大きなイワナが二匹焼かれたのが載っている。


「……僕、川魚苦手なんだけどな」


 塩原はちょっとしゅんとした様子で、定食の皿を見つめていた。


「定食二つ頼んだのに、なんで蒼環くんはから揚げなの?」

「祭りが終わるまで、俺は魚食わないんで」


 塩原は不服そうだったが、渡辺のおばちゃんが無愛想に麦茶をドンと置きながら「残したら倍料金」と言ったので彼はぎょっとした。


「美味しいですよ、川魚」

「臭みがあるじゃないか」

「よっぽど不味いのしか食ったことないんですね。可哀そうに」


 嫌味たっぷりに言いながらサクサクのから揚げをほおばると、塩原はムッとしながら魚にかぶりついた。


「おっ……!」

「ね、美味いって言ったじゃないですか」

「こりゃすごいや。苦手克服できそう」

「お米も美味しいです。全部、村で採れたものです」


 予想以上に味が良かったのか、塩原はがぜん食欲がわいてきたようだ。


「で、蒼環くんは僕になんの話?」

「塩原さんは、短冊祭りのなにを探ろうとしてるんですか?」


 塩原はもぐもぐしながらため息を吐いた。


「またそれ。質問に質問で返すやつ。最近の若者ってそういうのなのかなぁ」


 まあいいや、と塩原は箸を置いた。


「願いが叶うっていうのを知りたい」


 単刀直入に来た。見ると、塩原の目は本気のようだ。俺は白米を口に入れてゆっくり咀嚼した。


「それを知って、どうするんです?」

「おいおい、また質問かよ……」

「話を聞かせてくださいってメールしたんですよ、俺」

「悪知恵働かせやがって、ったく」


 塩原はポリポリ頭を掻いた。

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