第34話

『茅野は友達だ。それは俺の中でこれからもずっと変わらない』

「うん」

『で、ナルはどう思ってんだ?』


 訊かれて咄嗟に返事ができなかった。


『いいよ、まとまってなくてもぶちまけてみろよ』


 上杉はいいやつだ。俺はつい笑みがこぼれた。


『泣くくらい、茅野のことも村のことも好きなんじゃねぇの?』

「俺が泣くわけ……」


 ないだろ、と鼻で笑おうとしたところで、自分が泣いていることに気付いた。


 クーラーをつけていないから、身体が熱いんだと思っていたら違った。


「はは……――なんで俺が泣くんだよ」


 気付いたら、机の上に丸い水の粒が落ちている。


『ナル。今だから言うけどよ。普通、嫌だったら全力で拒否するもんだぜ。逃げられないとわかっていても、それでも抵抗するもんだ』


 小さい頃から、上杉は俺のことを知っている。


 ずっとずっと、俺が家のしきたりに従って生活してきたことを。


 扇子で手を叩かれて泣くのを堪えていたことも、髪を伸ばすのが嫌で自分でハサミで切って怒られたことも、上杉は全部知っている。


『お前さ、だるいだるいって言いつつも、村のことを拒絶したことも祭りをボイコットしたことも一回もねぇじゃん』

「……」

『スレたってよかったし、遥ちゃんに押し付けたって良かったはずなのにさ。ナルは一回も逃げてない』

「でも、祭り当日の祭事は、いつも親父に任せてて」

『でも、きっちり参加してるだろ?』


 そういえば、夏風邪をひいてつらかった時も、怪我をして痛かった時も、俺は欠かさず祭事には出ていた。


『やらされていたって思ってるかもしれないけど、それを最後、決定しているのはナル自身だ』


 全部、自分で決めてんだよと言われて、俺は顔を上げた。


『……俺、短冊祭り好きだよ』


 ナルは? と訊かれたわけじゃないのに、俺は電話越しに頷いていた。


「俺も」


 祭りがなくなったら解放されると思っていたのに。


 事実、そうなることがわかった時に受けた衝撃は忘れられない。祭事は生活のすべてで、人生の大半で、そして俺の未来だ。


 なくなったら困るとか、将来どうしようとかそういうことじゃないんだ。


「……これって、理屈じゃないのかもしれない」


 伝統もしきたりも、いつの間にか俺の精神と肉体に影響している。


 それらを失うということは、心臓の一部をもぎ取られるようなものだ。心がなければ生きていけない。それは死んでいるのと変わらない。


「近すぎて見えないことがあるんだ。大事なものは、手の届くところにいつもあるんだってわかっているのに……」

『そうだな』


 気づいてしまったらもう遅かった。


 俺の目からたぶん、滝みたく水が流れた。

 胸になにかが押し寄せてきて、このまま裂けてしまいそうだった。


 いや、もういっそ、裂けてくれたら楽かもしれない。

 目頭の異常な熱さ。耳まで火照る。


 ぎゅっと目をつぶると、何粒もの雫が机の上にパタパタ落ちた。


「……上杉。うまく言えないけど、短冊祭りは俺にとって、大事なものだと思う」


 好きとか嫌いとか、そういう話じゃない。


 ただただ、そこにあるという現実リアルな日常世界だ。この気持ちを適切に表せる言葉が、この世の中に存在しない。


「友達も、茅野も。みんなみんな、俺にとっては大事だ」

『そうだな、俺もそんな感じ!』


 上杉のすっきりした声が、すとんと胸の奥に入り込んでいった。

 すーっと胸のつかえが静まる。


「茅野ともっと話をしてみる」


 なにかが変わるわけではないだろう。自分にできることなんて、ひとつもないかもしれない。


「俺、茅野と友達でいたい」


 だからこそ、茅野と話さないまま夏を超えることはしたくない。友達でいてくれるかと訊ねられた時に、今度こそ迷わずに答えを言える自分になりたい。


 今まで逃げてきたわけじゃないけれど、真正面から受け止める力が欲しい。


 きっと今なら、芽生えたばかりのこの強い気持ちのままなら、俺は茅野の言う通り『なんにだってなれる』気がした。


『おう。頑張れ』


 なんだか上杉の声がものすごく優しかった。


『大丈夫だよ、ナル。その気持ちは、強いから』


 そのあと俺たちは、携帯電話の電池が切れるまでくだらないことを延々としゃべっていた。


 けらけら笑いあい、学校の先生の真似とかしながら時間は流れていく。


 気付けば上杉との電話は終わっていて、目を開けると夜中だった。


 俺は机の上で携帯電話を握り締めたまま寝てしまっていたらしい。暑さと汗で目が覚めた。


 時計を見ると、早朝の三時だ。


 すずめの鳴き声が聞こえるまで、あと少し。新聞配達の単車の音が満ちの外に響いている。


 ひとまずクーラーをつけて、水を飲みに部屋を出た。しかし扉を開けると目の前に食事とカバンが置いてあった。


 メモが一枚置かれていて『カバン回収しといたからね。貸しひとつ!』と遥の文字だ。


「なにが貸しだ、俺の貸しのほうが多いっていうのに」


 俺はシャワーを浴びると、涼しくなった部屋で冷めてしまった遅い夕飯を一人で食べた。


 気分はもう後ろ向きじゃない。朝日が昇ってくるのを見ると、俺は深呼吸とともに、今日という一日が始まることに感謝する。


 皿を洗い終わったところで、親父がちょうど起きてきた。


「どうした蒼環、こんな早くに起きて」


 俺は挨拶を済ませたところで、親父に向き直る。


「あのさ、親父……――俺、今年の祭りで斎主をやりたいんだ」


 それを聞いた俺にそっくりな親父の目元が、ゆっくりと緩んでいった。

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