第32話
歩いている間、俺たちはなにも話さなかった。なにかを話せる雰囲気ではなかったというのが正解かもしれない。
本当は塩原に言われたことを訊かなくてはなのに、それができなかった。
たとえそれが真実だったとして、なにかが変わるわけじゃないと思う。なのに、それを知ることが怖い。
「ここまででいいよ、送ってくれてありがとう」
茅野の家までの道は、いつもより少し暗かった。
濃い影をさらに濃い闇が消してしまう。茅野は脇を通り過ぎ、五歩くらい歩いたところで、ぴたりと立ち止まった。
「成神くん、鯉のこと好き?」
「まあまあかな」
祭り当日まで、無事に鯉を育てなくてはならないから、そのプレッシャーは大きい。好きだけれど、単純に好きという感情だけでは割り切れない。
「お祭り、好き?」
「うーん。正直、それはあんまり。やること多くて」
もう一ヶ月前になったから、毎日のように神事の連続になる。夏休みは、俺にとって休む時間がない期間だ。
「お祭りがなくなったら、嬉しい?」
まるでそれは、祭りがなくなることを知っているかのような確信的な言いかただ。
「…………茅野、なにが言いたいんだ?」
「ゴルフ場の話が出た時……解放されるって言ってたよね?」
俺は一歩茅野に近づく。しかし彼女は一歩下がった。
「それでいいの? 重たい役割と責任がなくなったら満足する? 嬉しい?」
その質問の一つ一つに、俺はどれもはっきりした答えを持てない。
「茅野。お前の家ってリゾート開発会社の――」
「ねえ、成神くん! 次いつ会える?」
俺の言葉を遮るようにして、茅野は声を強くした。
「……え?」
「次、いつ会えるの?」
彼女の質問はどういう意味だ? いったいなにを言ってるんだ。
俺の背中を、ぞくっとしたものが這っていった。
茅野の姿は、闇にまぎれて見にくい。
「なに言ってんだよ茅野。いつだって会えるだろ。ほら、川田もまた勉強しないとって言ってたし」
たかが、夏休みだ。
学校がないだけで、遊ぼうと思ったらいつだって遊べる。会いたいと思ったら、いつだって会える。それに、勉強会は川田が必ず開く。
「違うよ」
茅野の声がほんの少し震えていることに、俺はやっと気づいた。なにかとんでもなく嫌な気配を感じるのは、きっと気のせいではない。
「なにが違うんだ、茅野」
一歩近づいてみると、茅野の目元で涙が光っているのが見える。急激に俺の心臓が冷えていく。
「茅野?」
「もう会えなくなっちゃう」
茅野の声が、いっそう震えた。
「会えるよ、なに言ってんだよ」
俺の声が喉の奥で絡まった。
夜に鳴く虫の鳴き声が聞こえてくる。カエルまで合唱し始めた。
しばしの沈黙は、嫌な予感を増長させる。
「開発の話を有利に進めるために、この村に転校してきたの。娘や息子の同級生の親なら、ゴルフ場建設の話を聞いてくれやすくなるでしょう?」
茅野の言い放った言葉は、鋭い刃のようだった。
それは、塩原に言われた時よりも、もっと深く俺の心を切りきざむ。
「ゴルフ場の建設と、川の護岸工事が決定したよ。村の伝統が消えるの」
なんだか胸が痛くて軋む音がした。錆止めを塗ったとしても無意味なくらい、俺の心臓がギシギシ軋んだ。
「ねえ、成神くん。お祭り好き? 鯉は好き?」
「それは……さっき言った通りだよ」
「このまま全部なくなっちゃうけど、いい?」
「俺は解放されるだけだ。古いしきたりから」
「壊すのは一瞬だよ。でも、再生するのには気が遠くなるほどの時間がかかるよ。でも、それでいいんだよね?」
この時、果たして俺は彼女になんて言っていればよかったんだろう。
「成神くん。私は、あなたの未来を奪ってしまったわけじゃない?」
「そんなこと――」
仕方がないじゃないか。全部計画なんだから。
俺たちにどうにかできる問題じゃない。
それで、疑問だった家のことが消えてなくなるなら、万々歳じゃないか。
なのに、なんで俺は気分が晴れなくて、茅野は泣きそうな顔をしているんだ。
「ねえ。それでも私と友達でいてくれる?」
答えられないまま、俺も茅野も口を閉じた。
口下手だからなにも言えなかったんじゃない。あまりにも自分が愚かで、残酷なほど無知だったからだ。
震える彼女に、どういう言葉をかければよかったんだろう。
友人たちを裏切っているかもしれないという懺悔を抱えながら、毎日を過ごさなくてはならない彼女の気持ちが俺にわかるわけがない。
それはきっと、俺の気持ちを茅野が理解できないのと一緒だ。
俺たちは無力で、なにか強い力の下で流れに抗えずにいる。
苦しいのだけは、きっと共通の感情だ。
空を切る長い沈黙と、彼女が去っていく足音が泣きたいくらい痛かった。
「……なくなったって困らないじゃないか。伝統も、友達も……」
茅野のせいじゃないって、言えばいいんだ。大人の事情なんだから、茅野は関係ないって。だから、このまま友達だよって。
茅野の親が、俺の未来を潰す原因だったとしても、ずっとこのまま友達だよって。
未来もきっと、今までと違うことをすればいいだけだ。
それなのに、言葉が一つも出てこなかった。
「なんでだよ。最低じゃないか、俺」
俺は塩原の言う通り、まだまだ子どもだ。悪い意味で。
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