第31話

「待って、茅野。俺んち来てもなにもいいものないし、だだっ広いだけだし――」

「成神くんのお家、どこだっけ?」


 俺の話は無視して、茅野はあたりを見回しつつ道を進んでいく。おそらく、来ちゃダメだと言ってもついてきてしまうだろう。


「茅野。もし来客があったりすると、家の中には入れないから」

「いいよ、庭先だけで」


 振り返って俺のことを見てくる視線に、絶対に譲らないという強い意志を感じた。俺は茅野を説得するのを早々にあきらめてしまった。


「……あっちの黒い屋根の、でかい屋敷」


 言い終わらないうちに、茅野はまた歩き出した。


「え? あ、ちょっと、茅野!?」

「行こう!」


 気づくと、茅野と俺は家の外玄関前にいた。


 落ち着かない気持ちなのは、万が一ここで塩原と鉢合わせしたらという懸念からだ。もう、来てしまったのだから鉢合わせたらそれまでなのだが。


 なんで俺は、いつもいつも肝心な時にぼうっとしているんだろう。


 聞かなきゃいけないことを聞かなかったり、言わなきゃいけないことを後回しにしている。


 茅野はさすがに敷地中には入ろうとせず、その場で立ち尽くしていた。


 家の中から人の動く気配がし、俺は咄嗟に彼女の手を取ると家の横手にまわった。垣根の間の小さい門から入ると、立派すぎる日本庭園が現れる。


 茅野は感嘆の声を漏らすと、きょろきょろと辺りを見回した。


「すごい、立派なお庭だね」

「手入れが大変なんだよ」


 休日と言わず、時間があれば庭の落ち葉拾いや雑草抜きをしなくてはならない。


 特に落ち葉は放っておくと池を覆ってしまうから、こまめに網ですくうようにしていた。


「この庭は解放してあって、あの門から誰でも入ることができるんだよ」

「私も入っていいの?」

「まあ、俺が短冊祭りのこと話しちゃったしな……」


 目を離したすきに、茅野はすたすたと庭の中央付近に向かって歩いていってしまう。俺はあわてて追いかけた。


 茅野が池にかかっている橋の手前で立ち止まった。


 水中には立派な鯉が四匹も泳いでいる。


「……鯉だ」

「鯉だよ。みんなのね」


 村の全員が庭で鯉を飼えるわけじゃないから、こうして預かっているわけだが、今思えば責任重大なことだ。


「成神くんの『鯉神様』も居るの?」


 俺は広い池を見た。近くに姿が見えないので、探しながら周りを歩く。


「あ、あれ」


 四匹がまとまって固まっていた。


「一番色白の、四色のやつが俺の鯉」


 二匹は真っ赤で、もう一匹は赤と白のブチ。そして最後の一匹は白い身体に黒と赤と金の模様がある。


 俺の鯉は白地に金と黒のだ。


 一目見た時にあまりのきれいさに驚いたのを覚えている。


 いつもは村人たちが全員選び終わってから、ご縁がなかった子を選ぶようにしているけれど、この鯉と出会った時は違った。


「……すごくきれい」

「だろ。あの子が欲しくて、一ヶ月間みっちり掃除洗濯皿洗いに、食事作りしたんだ。大変だった」

「ふふふ。そうまでして、選びたくなる気持ちわかるかも」


 頑張ったかいがあって、俺の鯉はたぶんこの池の中で一番きれいだ。


「名前はつけないの?」

「ないよ。一年で放流するから」


 たった一年しか、鯉と俺たちは一緒に居られない。


 放流した鯉たちはどこかへ消えてしまう。そして翌日には新しい鯉たちが川に現れる。不可思議な現象だから、鯉は神様のお使いなんだとみんなは言う。


 お使いである『鯉神様』を持って帰って、一年間一緒に過ごすだけだ。


 だから、成神家は誰の願いが叶ったかなど、ちっともわからない。


 祭りのあとに髪の毛を切った人がいれば、良いことがその人に起こったのかもしれないと推測するだけだ。


 でも、願いが叶った人物が、たくさんのお金を持って成神家に来ることもある。そういう時はお布施をありがたくいただき、鯉たちや俺たちの生活費に充てる。


「いいなぁ」


 しんみりとした声で言われて、俺は茅野をまじまじと見た。たぶん彼女は本気で羨ましがっている。


 俺の鯉が、茅野の想いに応えるようにポチャンと目の前で跳ねた。


 それからしばらく、腰を下ろせる場所に座って池を眺めていた。


 茅野はなにを考えているのかわからない表情だ。俺も考え事がいっぱいで落ち着かない。時間だけが静かに流れていく。


 辺りが暗さを増してきて蝉の声も鳴き止んだというのに、茅野はまだまだ帰ろうとしない。俺はついに立ち上がって伸びをした。


「茅野、帰ろう。送っていくよ」


 そっと彼女の頭に手を置く。彼女は俺の顔を見上げて、すっと立ち上がった。


「うん。帰るね」


 俺はカバンを玄関に放り投げて、茅野を山の麓まで送っていった。たぶん、後で母に怒られるだろうけど、どうでもよかった。

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