第28話

 思えば、みんなの宿題を案じて、「みんなで勉強するわよ!」と川田からメールがきたのは昨日だったはずだ。


 終業式からまだ三日しか経っていないのに、川田は勉強のやる気に満ち満ちている様子だ。


 そういうわけで急きょ、上杉家に全員集合していたのを思い出す。


 俺は鯉の世話を終えて遅れて向かったのだが、訪問した時すでに上杉はぐだっていたはずだ。


 いろいろ思い出してくると、目の前の世界が急に現実として押し寄せてきた。


 俺も上杉も勉強に対しては真面目ではない。


 だから、怒った川田が俺たちに問題集を叩きつけるのにさほど時間はかからなかった。


 勉強会を誘った川田自身が「間違っていたわ、浩平をさそったの」とブツブツ言いつつ、読み方を教えている。


 川田は上杉のことを放っておけないようだ。


 委員長だからというのもあるけれど、別の感情が彼女の胸の奥にあることもわかっていた。


 彼女の気持ちを知ってしまっているため、俺はなんだか二人の世界を邪魔するのが悪い気がして茅野のほうを見た。茅野は、問題集がちっとも進んでいなかった。


「もう、みんなちゃんと授業聞いてないのね!?」


 あまりにもできの悪い三人をいっぺんに相手にして、川田は今度特大のヒステリーを起こした。


「夏休み中、あと数回は誰かの家で一緒に勉強するわよ!」

「うぇぇ……だりぃな」

「あんたは黙りなさい。いちっばん、勉強できないんだから!」

「へーい」


 あまりにも間延びした答えに、川田の額に青筋が浮かび上がる。


「浩平、そんなんで大学どうするのよ?」

「俺は大学行かないの。家を継ぐから」


 川田はその答えには満足しなかったらしい。


「修繕って英語でなんて言うんだ?」

「リペア?」


 ちょうど単語帳を見ていた茅野が答えると、上杉は「お、茅野すげぇじゃん!」と笑顔で彼女の頭をぐりぐりと撫で回した。


 いつもなら少しくらい抵抗するはずだが、茅野は黙って下を向いている。


 川田は姿勢を正して、みんなを見回す。


「みんな、大学どうするのよ。私は、普通に大学で勉強したいわ。民族の研究とか、資料館で働くのもいいし、文化財の保存にも興味があるの」


 川田に射貫かれて、俺は気まずくなった。


「この村はすごくいい所なのに…………なくなっちゃうから」


 伝統が失われることを、川田は危惧しているようだ。俺なんかよりも、ずっと深く。


 それ以上なにかを言われるのが嫌で、俺は隣にいた茅野に視線をずらした。川田の話を聞いていないのか、彼女は黙々と勉強していた。


「……茅野?」


 俺が声をかけると、茅野はびっくりしたように肩を震わせた。


「大丈夫?」


 訊ねると、茅野は手元にあった麦茶を一気に飲み干して頷いた。


「おかわり持ってきましょう。浩平、冷蔵庫に麦茶ある?」

「えーどうだったっけな?」

「ちょっと一緒に来て。さすがに他人の家の冷蔵庫を開けるのダメだから」


 上杉は宿題から離れられることが嬉しいのか、勢いよく立ち上がった。持ってきたおやつも皿に載せてくるからと、川田も一緒に階下に降りていく。


「茅野、なんか様子がおかしいけど」


 彼女の目は部屋の壁を見ている。しかし、心ここにあらずと言った様子だ。


「成神くんは、なにになりたいの?」


 訊ねられた瞬間、頭が真っ白になった。そういえば、茅野とまともに話したのって、いつぶりだろう。


 それに、茅野の声を聞いた瞬間、塩原に言われたことが頭の中に押し寄せてきた。


 ――リゾート開発。

 ――社長の娘。

 ――話を通しやすくするために、茅野は村に移住してきた。


 忘れようと思っていたはずなのに、忘れたいと思えば思うほど、逆に記憶にこびりついている。


「将来は、上杉くんみたいにお家を継ぐの?」


 嫌な冷や汗が背中を流れて、俺の体温が一気に下がった気がした。

 ぐちゃぐちゃした感情が押し寄せてきて、俺は言葉をのみこむ。


「俺は、まだ決まってない」


 答えた自分の声は掠れていた。ごまかすようにゴホンと咳払いする。


「成神くんは、なんにでもなれるよ。なんでもできるよ。だって、一緒に屋上に行ったじゃん?」


 不可能だったはずなのに、と茅野は付け加えた。


 予想していなかった返事に、俺は思わず茅野を見つめてしまった。

 てっきり、「家を継がないの?」とか言われるかと思っていたのに。


「あの時私、すごく楽しかった」


 すーっと力が抜けていく感覚がした。気負いすぎてカチカチになった身体と脳が、段々とほぐれていく。


「……そうだな。楽しかったな」

「すっごく楽しかったよ」


 そのあとに起こった衝撃的な事の数々で忘れてしまっていたが、あの時の俺たちの世界は広くて美しかった。


 なんで、嫌なことばっかりが記憶に残ってしまうんだろうか。


 楽しかった瞬間だけで、脳内をずっとずっと満たしておけたらいいのに。

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