第21話

「え、と」


 茅野が胸中で「しまった」と思っているのが手に取るようにわかる。


「成神くん、今の聞かなかったことにして!」

「それって結構、無理あるだろ……」


 茅野は下を向いた。どうやら相当落ち込んだらしい。


 大失態だ、茅野。

 俺は、そういうのを知りたくなかった。


「成神くんには、ついうっかりしゃべっちゃうみたい」

「うっかりしすぎ」

「ごめん」


 俺に謝ったところで、もう覆水盆に返らずだ。俺ははあ、と息を大きく吐いた。


「一つ教えて」


 覗き込むと、少し悲しそうな茅野の目が印象に残った。


「さっきのって、ほんと?」


 茅野は眉間にしわを寄せたあと、小さくうなずいた。


「まじか」


 意外だった。

 川田は上杉に対してあたりがきついことがあるから、俺はてっきり、あきれていると思っていたのに。


 あの異常なぐらいの舌戦も、すぐカッとなるのも、上杉に対する「想い」の反動だったとしたら。


 俺は自分の鈍感力にゾッとした。


「成神くん。ほんとに誰にも言わないで。お願い」

「大丈夫。言ったりしないよ」


 俺は茅野に向かって笑って見せた。言ったりしない。そんな野暮なことしたくもない。


 茅野もにこりと笑って手を差し出してきた。よく見ると、小指が立っている。


「指きり?」

「うん」

「俺って、そんなに信用ない?」

「そういうんじゃないってば」

「冗談だよ」


 俺たちは指きりげんまんをした。これは、二人だけの秘密だ。


 窓の外で夕日が赤く染まっていて、教室に黒くて長い俺と茅野の影を落とす。


 窓枠の影も異常なほど伸びている。それを見ていると別世界にいるみたいな不思議な感覚になった。


「……くん、成神くん?」

「ん?」


 茅野の声が耳に届いて、俺は目を瞬かせた。


 頭の中を整理するためなのか、俺は意識がどこかに飛んでいたようだ。茅野はふざけて俺のほっぺたを摘んで引っ張った。


「大丈夫、成神くん」

「ごめんごめん……やば、とっくに十分たってる」


 頬をつまんでいた茅野の手を引きはがしながら握る。そのまま手を繋いで、教室を出た。


「少しのんびりしすぎたな。早く行こう」

「うん」


 辺りに生徒や校務員がいないのを再度確認しつつ、静かに階段を上る。

 屋上へ続く階段だ。この先は、まだ見ぬ聖地って感じがする。


「っくしゅん!」


 俺のくしゃみに、茅野が肩をびくりと震わせた。


「ごめっ……急ごう」


 心配そうな顔をして、茅野が覗き込んでくる。俺は彼女の手を引っ張って、駆け出す手前の速さで階段を上った。


「成神くん、先に行って」


 小さな声で言われ、俺は埃でむずむずする鼻を押さえながらドアノブを回した。


 扉を抜けた瞬間、気持ちのいい風が吹きぬける。


 はっとして前を見ると、そこには空があった。


 風が強い。そのおかげで、雲が散らされている。


「はは……」


 思わず俺は笑顔が漏れていた。


 みんなは大きな室外機の向こう側にあるフェンスにいる。早く茅野にも見せたいと後ろを振り向いたところで、強風にあおられて扉が閉まる音がする。


「わっ!」


 扉を抑えきれなかった茅野が、申し訳なさそうにこっちを見てきた。


「ご、ごめん……どうしよう、音響いちゃったかな?」

「いいよ、そんなの」


 怒られるなら、怒られたっていい。そう思えるくらいに気持ちがよかったから、俺は再び茅野の手を取った。


「すごいな」

「すごいね!」


 茅野は気持ちよさそうに深呼吸をする。


 俺は茅野と一緒にみんなのところへ向かった。屋上の緑の地面と同じ、緑のフェンスが見える。


 ――その向こうに続く、果てしない空。


 それは明らかに近くて、手を伸ばせば雲に届きそうな気がした。


 言葉にならないというのは、こういう時に使うのがきっと正しいんだ。


「どう、感想は?」


 川田と上杉も、じっと青空を見ている。二人の横に並んで、俺は隣にいる茅野に視線を落とした。


 彼女はフェンスに両手でしがみついている。強い風に今にも吹き飛ばされそうな小さい身体で、自然をいっぱいに感じていた。


「……すごいっ!」


 茅野の珍しく大きな一言が、全員に伝わって笑顔が広がる。

 俺も嬉しくて、きっといつも以上に笑っていたと思う。


 しばらくすると、青空の色がどんどん変わっていく。


 夕日が真赤に空を染め上げて、雲を優しい色へ染めていった。


 山も川もたんぼも畑も家も、そして俺たちも、柔らかい色に包まれていく。


 黒い影が大きく伸びた。夕焼けに切り取られた俺たちの影絵はとてもきれいだ。


 強い風が駆け抜けて、俺たちの感情を一気に吹き飛ばしていく。


 俺たち全員が言葉を失うほど、素直にきれいだと感じていたんだ。


「きれいね、私たちの住んでいる場所は」


 いつも厳しい顔をしている川田も、今は優しい笑顔になっている。

 ゆるく流れる雲。


 だんだんと小さく山に隠れていく夕日。


 輝き始めた一番星。


 森に帰る鳥の影。

 すべてがまるで絵本の中のように輝いていた。

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