第17話
緊張とは無縁の生活が身に染みているのだが、俺は久しぶりに少し緊張していた。
ソワソワと落ち着かないのは、今日の放課後のことがあるからだ。誰かに見つかったらどうしよう、という恐怖心ではない。
明らかに自分でもわかるくらい、俺はワクワクしている。
茅野と一緒に屋上にのぼろうと言いあったのは、ほんのちょっと前のことだったはずだ。
鍵の問題で入れずに終わるところだったのに、いつの間にか計画は進んでいる。
それも、とてもいい方向に。
(なんにもできないのな、俺って……)
言い出しっぺのくせに、結局なにもできないままだ。
無性にやるせなくなって、きちんと化学のノートを取ることにした。
きちんと板書を全部ノートに書き写したのなんて久しぶりだ。
自分のノートを見返してみると、眠いのも重なっていたのかなにが書いてあるのかわからず首をかしげてしまった。
卒業後にこれが役に立つとは思っていなかったのもあって、今まで真面目に授業を受けてなかったようだ。
よくもまあこんな象形文字のようなものを書いていて、叱られなかったなと不思議に思う。
俺は顔にあまり出ないから、真面目に授業を受けていると思われているのかもしれない。
自分の書いた文字の解読を試みていると、教室のどこからかいびきが聞こえてきた。
神経質で厳しいことで有名な化学の先生の前で、平気で寝ていられるようなのは、あいつしかいない。
あまりにも大きないびきだったので、教室中に動揺が広がる。しかし説明中の先生には聞こえなかったようで、上杉は引き続き机に突っ伏してぐうぐうと寝ている。
まさしく、神経が図太いという言葉が正しいようだ。
(俺はお前をほんとに心から尊敬するよ……上杉)
緊張感に欠ける上杉が羨ましかった。
川田がノートを写し取っている手を止めて、寝ている上杉を見てから「これはダメね」と言いたそうにあきれている。
一方、茅野は窓の外に浮かぶ雲を見ており、なにを考えているのかわからない。眠そうな目だけが見えた。
上杉の鼻息に俺がため息を吐いた瞬間、化学の先生がこっちを向いた。
「授業中にあくびはよろしくないわね」
上杉のいびきは聞こえなかったのに、俺のため息はあくびだと勘違いしたらしい。
先生は黒板に文字を書き始める。直感で悟った。彼女は、この問題を俺に解かせようとするにちがいないと。
「では成神くん。この問題を解いてみてちょうだい」
俺は、ノートと黒板をかわるがわるにらむ。
なんだよ、モルって。なんで十を二十三個も掛けなきゃいけないんだ。
急な頭痛でも襲われて、この場でぶっ倒れて保健室にでも行きたい気分だった。
「……あーっと、先生。そもそもモルってなんですか?」
先生の眼鏡が太陽に反射して光った。彼女の眼鏡の奥の瞳が、俺に冷たい視線を投げてくる。
今まですいませんでした、先生。これからはちゃんと聞きたいと思います。俺はボソッと心の中で呟いた。
化学の時間が終わると俺は気疲れしてしまって、机に身体を投げ出した。すると、茅野が俺の机の横まで来て声をかけた。
「びっくりした、成神くん」
「ん?」
俺は顔を半分腕にうずめて茅野を見上げる。
こうしていると、茅野が俺よりでかく見えてちょっと不思議な感覚だ。
「さっきはなんだか自分が指されたみたいに思って、一生懸命問題解いちゃった」
茅野が複雑怪奇な顔をしながら笑った。なんだそりゃ、と俺も笑ってしまう。
「茅野は答えわかった?」
「もちろん」
茅野を見上げていたが、俺はそっと立ち上がった。一気に視線が高くなり、茅野が今度は俺を見上げた。
「やっぱりこうでなくっちゃ」
俺はにやりと笑うと茅野の頭をわしゃわしゃと撫でた。
「わ……!」
「茅野がでかいと、なんか落ち着かない」
一通りぐしゃぐしゃにしたあと、俺はすっかり気分がよくなって、伸びをしてからロッカーに教科書を置きに行った。
後ろからたかたか駆けてくる音が聞こえる。
振り返ると、茅野がこちらに駆けてきていた。俺が避けると予測していなかったのか、そのまま突っ込んだ茅野は、廊下にいた人影に突進しそうになる。
俺が茅野の裾をひっぱっていなかったら、おそらくぶつかっていたはずだ。
「危ないって」
「だって、成神くんが……」
茅野が抗議した瞬間、人影がこちらを振り返った。
(ん? 誰だ……?)
学年主任と一緒にいるのは、見たことのない人物だ。中肉中背で、背は俺より低い。四十代といったところか。
「成神くんってば」
「ああ、悪い……」
ぽかすか叩かれて、俺は視線を茅野に戻す。その間に見たことのない人物は学年主任と遠くにいってしまった。
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