第13話
「ありがとう、茅野」
茅野はさらに一言付け加えようとしたようだが、寸前で言葉をのみこんで押し黙った。
「髪を伸ばすと夏暑い。衣装を着るのも面倒」
思っていることを伝えると、茅野は真剣な表情になった、
「それに、家は作法にうるさい」
父親は成神の跡取りで、母は隣県の神社の娘だ。父はそれほど厳しくないが、母はきっちりしている性格だ。
「村人から預かっている鯉の世話も、時々面倒になる」
なんで、自分の願いが叶うわけでもないのに、他人の願いのために鯉を育てなくてはならないのか。
世話をしたのだから少しくらいいい思いをさせてくれたっていいのに、神様はそういうところだけ平等を貫いてくる。
年に一度きりの祭りのために、毎月のように神事があるし、形式ばっているそれらを窮屈に感じる。
伝統だと言えば聞こえはいいが、俺からしたら『成神家は特別だ』というのをでっちあげるための仰々しい作法にしか見えない。
こんなことは大した不満じゃないのかもしれないが、俺の中では日に日に問題になっている気がする。
このままだと、小さいことでグチグチ言ってしまいそうだ。
深呼吸しながら視線を遠くに向ける。田んぼには小さな稲の苗が植わっていて、水がきらきら光った。
もうそういえば、田植えの時期だ。
冬の間、からからに干からびていた水田に、水が入る姿は好きだ。特に夕焼けが移りこむ姿は神秘的でなんとなくワクワクする。
実際には、なにかがあるわけじゃないし、祭りの準備が始まるから忙しくて嫌なことが多いのだけど。
「……茅野。俺の家と茅野の家だったらどっちが遠いと思う?」
気持ちが落ち着いたところで、俺は茅野に質問してみた。
「私の家」
「俺の家も遠いよ」
少し張り合ってみると、茅野は食いつくように俺を見上げてきた。
「だって、私の家は山だもん」
茅野が予想通りの反応をしたので、おかしくなって口の端に笑みを乗せた。
彼女の行動や言動は読めないことが多いけれど、俺に張り合ってくることはわかっていた。
「成神くん、なんで笑うの?」
「別に。茅野の返事が、予想通りだったから」
もうすぐで、あのわかれ道に着く。
右が茅野、まっすぐが俺。どこまでも続く一本道を突き当りまで行かないと、自宅にはたどり着かない。
わかれ道に着くまで、俺たちはずっと無言のままだった。
別に、気まずい沈黙なんかじゃない。なにも話さなくたって、俺たちはなにも変わらない。
茅野が道に落ちていた小石を蹴ると、ぽちゃんという音を立ててたんぼの中に落ちた。
「じゃあ、またね」
気がつくと茅野が隣からいなくなっていた。気づかないうちに、茅野はすでに少し緩い坂道の途中にいた。
「じゃあな」
左手をポケットに残したまま、右手を上げる。
茅野が登る山を俺は仰ぐようにして見た。夕焼けの赤い空の中で白い月がぽっかりと浮かび、一番星が山の上でぴかぴかしている。
それはなんだか店で売っている安物のプラスチック製品みたいだった。
茅野と別れてしばらく歩けば、比較的すぐに家に到着する。
たぶん、家は俺のほうが近い。
玄関の外まで夕飯のいいにおいがした。今日のおかずは揚げ物のようだ。おそらくこの漢字からして、鶏のから揚げに違いない。
鯉を大事にする家系のため、基本的に魚はあまり食べず鶏がメインだ。
「ただいま」
匂いに反応して、腹がぐるぐる鳴った。まだまだ成長期なので食欲はたっぷりある。
「おかえり! 蒼環、悪いんだけど庭からネギ取ってきて」
母親の明るい声が聞こえてきた。
俺は脱ぎかけていた靴をもう一度履くと、かかとを踏んづけたまま庭へ行った。相変わらずの大庭園で、鯉たちが泳いでいるのが見える。
母は軒先にいくつかあるプランターで、ちょっとした野菜を育てている。パセリとかネギとかは、食事に彩りを添えるのに役立つらしい。
巨大な庭を眺めつつ壁沿いに歩いていき、目的のネギが置いてある場所にたどり着く。道具をまとめてある場所からハサミを持ってくると、ネギを根元から貯金と切った。
それを持って台所へ向かい、母に渡す。
「ありがとう。手、洗った?」
「まだ」
言われた通り手を洗ってかばんを持って、二階にある自分の部屋に行く。開けた窓から入ってきた風に、野菜炒めのにおいが混じっていた。俺の部屋の真下は台所だ。
階下からは、母が包丁を動かすリズミカルな音が聞こえてきた。持ってきたネギを切っているのだろう。今日は繋がっていないといいが。
しばらく窓を開けっ放しにしておいて、部屋着に着替えた。
元々ぼさぼさの髪をぐしゃぐしゃ掻くと、やっとリラックスできる。一息つきながら、勉強机の椅子に深く腰掛ける。
なにをするわけでもなく、しばらくそこでぼうっとしていた。
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