序
序①
「もしもーし、起きてくださーい」
控えめな声量の、ソプラノの声が聞こえてきた。
――誰だよ、せっかく気持ちよく寝ているのに。
聞こえなかったふりをしていると、寝ている身体をゆさゆさと揺り動かされた。
初めの頃は控えめに背中をトントンされていたのに、段々と遠慮がなくなっていく。そのうち、身体全部を揺すられ始めた。
なんだかいつも以上に眠かったせいで、俺は起きられなかった。
そうやってずっと寝ていたからだろう。耳元で俺を呼ぶ声もしなくなり、いつの間にか背中に置かれていた小さな温かい手の感触も消えていた。
これでやっと、気持ちよく寝られる。押し寄せてくる眠気に再度意識を手放そうとした。が。
「…………寒っ」
俺は身体を起こした。身体がぶるぶる震えはじめる。なんなんだ、どうしてこんなに寒いんだ。
教室の中には、銀色のボコボコした不気味なパイプをつなげた、燃費は悪いけどかなりあったまるストーブがあるはずだ。
まあ、それのせいでいつも眠くなってしまうのだけど。
俺は目をこすってから、教室の隅に置かれているだろうストーブを見た。活動中のそれが見せる、ほのかなオレンジ色の光は消えている。
「さっきまでついていたのに……」
再稼働させようと席を立ち、周りに誰もいないことに気づいた。
「あれ?」
黒板横に貼られている時間割りを見る。授業を受けた覚えがない。
そういえば、今日はテストだったはずだ。
「おはよう」
突然声をかけられ、驚いてそちらを振り向く。
白い息を吐きながら、小さな鼻を少し赤くさせた眠たそうな目をした少女――
しかし、俺の視線は彼女よりもさらに左に向かう。
「……まじか。信じられない」
窓が全開になっている。くそ寒いわけだ。
俺は頭で考えるよりも早く窓に近寄ると、分厚いガラスを少し乱暴に閉めた。横に立っていた茅野は、俺の素早い動きをじーっと見ているだけだ。
寒くて当たり前だ。今日はどんよりと湿った空気の曇り空で、今年一番の寒さだと天気予報で言っていた気がする。
俺は茅野をにらんだが、茅野は平然と手に息をかけて温めている。
「茅野。クラスのみんなは、どこ行ったの?」
彼女は手に息をかけるのを止め、きょとんとした目で俺を見てくる。その目があまりにも丸くて、まるでリスみたいだった。
いつもはセーターにブレザーを着ているのだが、ストーブが入るとすぐに暑くなってしまうため俺は教室では薄着だ。だから現在もシャツ一枚。冷えるというよりも、痛いくらい寒い。
「大体どうして、ストーブが消えてるんだよ。寒いだろ」
「
質問には答えず、なぜか別の質問が返ってきた。一瞬むっとしながら俺はセーターを羽織る。
「それぐらいいくら頭の悪い俺でもわかる。テストだっただろ」
「そう。それでもう終わった」
「――はい?」
俺はしばらく息ができなかった。茅野にくぎ付けになったまま、完全に止まった。茅野も大きな瞳をきょとんとさせて、俺のほうをじっと見つめてくる。
彼女の言っている意味がわからなかったので、教室の一番前にある時計を確認した。大きい針と小さい針が、四時を形作っている。
「テストって……」
俺がしどろもどろになっていると、茅野が口を開く。
「二時前には終わっていたよ」
彼女は言い終わると同時に、なにかに気がついたように外を見た。
「――あ。雪」
つられて俺も外を見た。たしかに、白い小さな粒が天空から舞い降りてきている。
――初雪だ。
茅野はいきなり駆け出したかと思うと、教室の一番端へ行って窓を全開にした。
冷たい空気が一気に室内に流れ込み、茅野の真っ白くて小さな鼻をたちまちまた赤くした。
外に向かって茅野は手をぐいっと伸ばす。背の低い彼女の行動は、まるで小学生のようだ。
俺は茅野の隣に行くと、同じように窓から身を乗り出して空を見上げる。曇っているし寒いと思っていたけれど、雪が降るとは思っても見なかった。
寒くて体を引っ込めると、茅野の手に白い雪が一粒乗る。瞬間、溶けて消えた。
「成神くん、寒くない?」
彼女は鼻だけでなく頬も赤くなっている。
「茅野のほうが寒そうだけど」
「うん。すっごい寒い」
「雪は降り始める前が一番寒いんだぞ」
ストーブを消したことを回りくどく注意したつもりだが、「へえ、そうなんだ」という返事を聞く限り、伝わっていないようだ。
恨みがましく茅野を見下ろすと、彼女は目をしばたたかせながら俺を見上げてきた。
「さっきはごめんね。いくら揺すっても起きなかったから」
俺をずっと呼んでいた声は、茅野のだったらしい。
「テスト終わってから、俺ずっと寝てた?」
「うん。掃除中、机を下げたりしてうるさいのに、よく起きなかったね」
茅野は、あきれたというよりもむしろ感心した、と言わんばかりだ。
「一回寝ると、起きないんだ」
風が吹いて、茅野の前髪を吹き上げる。急いでそれを阻止しようとする姿が、子どもみたいだ。
そういう俺は教室内では誰よりもでかくて、こうやって二人で並んだら、身長差はゆうに二十センチはあるように思われた。
あまりにも風が強まってきたので、寒くなって俺は窓から離れる。茅野も窓を閉めてから、雪がついている頭をふるふると揺すった。
粉雪が床に落ちて一瞬で溶ける。
まだ茅野の髪の毛にいくらかついていたので、俺はそれを払ってやった。
「茅野って身長いくつ?」
訊ねると、茅野はピシッと背筋を伸ばす。
「一五〇センチ」
「小さいな」
「うるさい」
彼女が背筋を伸ばしていくら背伸びをしたところで、長身の俺の肩にも届かない。正直に言えば、中学生のほうがでかいと感じるレベルだ。
「そういう成神くんはいくつ?」
「俺は一八五。でかいだろ」
嫌味っぽく笑うと、茅野はぽかんと口を開けた。
「じゃあ、私より三十センチも大きいの?」
「そうだな」
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