ニヒリズムと女生徒 上


 経験の不足という避けられぬ原理故に、若者はみな無知だが、無知なりに潜考を深めていく中で、彼らは彼らの生涯の伴侶とするべき思想的類型を自ずから撰り取るようになる。ニヒリズムを、そのような類型のひとつと定めてしまっては、分類階層的な妥当性を欠くように思われるかもしれないが、事実として、ニヒリズムという思想とも言えぬ思想は、地図上に白塗りされた不帰属の地帯のように、我々の生活上の未解決なままに放棄された広大な領域を今もなお支配している。

 蓋しこれからも支配し続けるだろう。


 暗い精神にとって、未知と虚無は似ている。絶え間ない思想的格闘の果てに千ヤードの凝視を備えた哲学者はその先には何もないことを悟って復路につく。復路の道すがらで、漸く独創と呼ぶに足るものを獲得する。しかし、同じく何もないという渺茫とした予感が、恰も広がり渡る海原のように若者らを魅し、無謀な冒険心を徒に煽り立てるのである。哲学者にとって、虚無主義は疲労困憊した精神に囁きかける悪魔の甘言のようなもので、しかもそれは再三となく聞いてきた人寄せの口上に過ぎないのだが、若者らにとってそれはは、まだピカピカの特注品で、ややもすると己の脳髄から絞り出した独創であると思い込んでしまう。

 虚空に向けられた焼け付くような視線。彼らはその先に人生を打倒するための何かを期待する。彼らの中の強かな幾人かは、ニヒリズムそれ自体を人生に抗う武器に仕立て上げる。そんな彼らが、例えばニーチェのような狂気に触れれば、劇症型の発作に見舞われるのは必至だ。私もまた、かつてはそのような患者の一人だった。


 過ぎ去る時間の謐けさに耳を傾けながら、人生の長さは自分の内的生活を圧倒してくれるだろうかと、夜な夜なの野放図な空想に震えていた高校生時代の私にとっては、ニヒリズムは乗り越えるべき壁であった。とは言え、当時の私にどれだけ深刻な問題意識があったかは知れない。ニヒリズムの問題など、専ら安眠に関わる差し当たっての懸案に過ぎなかったのかもしれない。

 図書室の窓際から射し入る光が、舞い上がる埃をワンフレーム分だけ映し出している。その様子は、登ったそばから闇に消え入る火の粉のようで、私はそれを眺めているのが好きだった。変化に対する純粋な楽しみは、音楽のように、時間の流れを肯定してくれる。

 図書室の奥の奥、誰も来ることのない書架の一隅には、禁じられたままに忘れられた秘密の部屋の匂いが漂っていた。そこにポツリと置かれた閲覧用のスツールの座り心地の悪さは、この空間の現実感の希薄さから生じる心因性の錯覚に違いなかった。

 整然とした、端正な非日常。「青春」という二字は、一方的に大人たちから寄越された褒章のようで、身体に馴染まない晴れ着のよそよそしさを帯びている。それと同じく、大多数の生徒には顧みられないこの空間も、本来の用途目的ではなく、ただ存在することを要請されてそこに在るような機能的な空疎さのために、現実世界に対してどこかよそよそしい。つまり、この場所は「青春」というものを成り立たせるためだけに、先の代から脈々と、無為にオーソリティを増しながら受け継がれてきたのだと、そのように私は感じていた。

 この場所では、書物の背後に隠れた著者の知的な活動は、それ自体の意味を度外視されたところでその力を奮った。それは、人間の肉体のように、何かしらの意味内容を未知のままに秘めている一個の塊であった。埃臭い書棚に鼻面を揃えて居並ぶこれら知性は、ハードカバーの内側に守られて、試される危険から一切免れているというのに、寝汚さのようなものをまるで感じさせないのは、その沈黙が、凡そ威厳と見紛える程に熟していたためだろうか。概して偶像とは埃臭いものだ。誰もが触れることを躊躇するくらいに。


 これは私の記憶に刻まれた心象風景の一つである。歳月を経て、私の郷愁が無意識のうちに形作った文学の故郷と言えよう。神秘めいた書架の陰に佇まう、書籍の重厚な黴臭さ。陽光に照らされて、書林から立ち昇る朝霧のような光の粒子。私の心は、時と場所を超え、あの日のあの光景の中で息衝くことができる。


 ところで、私が私の聖域を今でも生きることができるのは、それは恐らく、私の細やかな瀆聖と、顔も知れぬ女生徒の悪戯が、悪因善果、手に手を取って効果を上げたことによる好事であろう。

 高校時代の私の趣味で、如上のような書籍の中から、深海に眠る貝のように、収書以来密やかな眠りを飽かず続けてきたであろう少数冊を見つけ出して、最初のひとりとなる悪漢の愉しみを、私は知っていた。二枚のおおがいの、あの寡黙な口堅さ。裁断面の荒さを僅か残す小口は、土の中で呼吸を始めた双葉のようにぎこちなくもつれ合って、私の指先に潔く裁かれようとはしない......あの本も、そのような一冊であるはずだった。

 『ニヒリズム』と題されたその本は、筑摩書房刊行の日本思想史叢書、「戦後日本思想大系」シリーズの第三巻である。紺青の装丁はレザークロスだったろうか、今となっては定かではないが、革を模した化学素材の潔癖な冷感は、全体の古ぼけた印象に抗して朽ちないニヒリズムの思想的強情さを表しているようで、好もしかった。

 図書室で本を手にしたときの慣わしとして、私はまず裏見返しを開き、図書カードを閲した。案の定、誰にも借りられた形跡はない。意気揚々と表紙を開くと、一束の長い髪が、そこからするりと私の上靴の上に落ちかかった。​​​​​​​

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