思い出の中の神殿

坂本忠恆

若い芸術家たち


 医者は私に、最早することは何もないと告げた。それは朗報としてである。実際、隔月の通院さえ、私にとっては止め時を失した悪習慣のように感じられてきていた。

 ほんの少し前まで、ささやかな非日常が私に与えていた、何処か好ましい憂哀の印象も、心身の恢復と供に代謝した日常の軽薄さによって損なわれたようだ。今、私は幸福である。しかるに、幸福感情の自家に同居し難い人間心理の天邪鬼な質は、まことに生きることをむつかしくさせる。これは単に私のへそ曲がりだろうか?


 方々を歩き回って、蒐集した新説も、手慰みにもならぬ気鬱さを私に与えるばかりであった。知的フロンティアというものに、まだ見ぬ精神的境地を夢見させるのもまたこの気鬱であろうが、不精者に御輿を上げさせる気鬱とは正に退屈の所以であって、これほどの魔性は他にあるまい。兎にも角にも、斯様な私のメランコリアなど、精神の肥満から生ずる合併症に過ぎず、濃淡の薄らいだ淡い感情生活にのみ許された贅沢な悩みであることは確かだ。

 然あれども、悩みとはやはり往時を偲ぶ言葉のように、知れず私の両の手を滑り落ちた他所事の感がある。出先の間に合わせで買ったハンカチを、箪笥にさんざん積み重ねていくような、蓄蔵とは裏腹の浪費感……あるいは、そのハンカチをどこかで落としてきてしまったことに不図気づいたような、心惜しさと相半ばする何とも言えぬ解放感。そんな感覚が、今ここにある。


 苦労話の大抵は猥褻なものである。そこには、他者の共感を顧みない独善的な悦びがあるからである。それは話されることそれ自体によって、目的を自足している。すなわち、斯様な猥褻な言は、一方的に振るわれる暴力行為に似て、他者との関係を専制的に規定するのみで、行為たらざる言葉の地位を穢している。私が過去の苦労を語ったところで、それは私自身の満足に終始するだけだろう。

 苦労話に限らず、他者に対して語られた家族愛、批判のために行われた批判などは、猥褻な言葉の一例である。猥褻であるからそれを避けるべきだ、と言う道理を説くのではないが、処世術の一つとして心に留めておくことは、決して無駄ではないだろう。


 何年前だったか、私がまだ学生だった時分のことである。その日は新宿の世界堂にパルテル画材を買いに行った帰りに、何の気なしに、西口の某画塾のあるあたりまで歩いて行った。その日の買い物が、私の足取りをこの画塾に結びつけたというわけではなく、単にそれは私のいつもの散歩道のひとつだった。

 画塾の前には、塾生と思しい私と同年輩の幾人かが屯していた。皆一様に、肩に画版をかけており、隣の予備校に通う受験生とはまた少し異なる風貌を帯びていた。芸術に従事するということの詩性が関心に作用したためか、私は好んでよく彼らを観察することがあった。そのときも私は立ち止まり、一車線を隔てた反対側から彼らを見ていた。

 すると、塾生の内のひとりが私の視線に気づいて、こちらを見返した。その視線は最初に私の顔へ、次に私の提げていた世界堂の袋へ、そして最後に再び私の顔へと注がれた。その目配せの速やかさは同時に彼の勘違いに至るまでの速やかさを証ししていた。彼は私をいくらか冷ややかな目で見た。彼の周りの塾生も、恰も彼の残した視線の軌跡に追従するように、おしなべて同じ素振りを取った。

 不思議と、彼らの反応が私には嬉しかった。


 その場を辞した後も、私は彼らについて考えた。

 殊更に、主たる表現の手段として、絵画を選んだ彼らの意図に、私の関心の矛先は向いていた。私は表現のひとつとして、絵を選ぶこともあったし、音楽を選ぶこともあったが、どれかひとつに拘泥するということはなかった。それは何かひどく危険な態度で、表現物が現に表現されてしまう前の創作思想を、手段に伴う制約によって毀損してしまうやり方のように思われた。

 また、すでに言葉によって表現されたものを、絵画に再翻訳する彼らの遣り口(その逆の遣り口でもよい)に、私は疑問を抱いた。それは反知性主義的な反骨思想ではないが、同じようなやり方で、言語化の向こうで表現を焼きまわすことにより生じる彼らの表現物の不具を、端から宿命付けているのではないかとも思われた。その母体は病んでいる、と、私は思った。

 今しがたその片鱗を見せた彼らの選民的帰属意識にしろ、群れを成す芸術家と言うどこか滑稽じみた絵面にしろ、それを嗤う私にしろ、その根本に通ずるものはある種の権威性でしかなかった。あらゆるものに、言語的な権威が絡んでいる。文明社会において、形を持って顕現する全ては、生前に、おしなべて言葉による洗礼を受けているという時間的矛盾の正当化から生じたものが、当時から続く私の宗教だった。

 権威という言葉に対して語られる内容というものが、私には信じられなかった。私の宗教においては、神の言葉はそれ自体によって意味付けられていたからである。

 権威化された言葉は、言葉自体を意味付ける。意味付けは言葉によって行われる。故に、言葉それ自体は、権威の最たるものである。

 これが私の弄した論法だった。


 権威化された芸術と言う不都合を隠し立てするために装飾された内容というものが、すなわち彼らの語る芸術言語であるらしかった。然るに、言葉が権威的である以上は、言葉の権威性ではなく内容で真価を見極めるべきである、というある種権威化された言説は、本来的に無意味だ。

 この自家撞着を、如何にして彼らは閑却し得るのか。芸術に見返りを求めない無窮の奉仕が、それを可能にするのだろうか?

 彼らは己の人生の裏付けを取るために芸術をするのだろうか。だとすれば、彼らの四苦八苦も、ある種の俗世的な戦略に過ぎないのだろうか?

 芸術的な苦労話に共感はなく、他者を額づかせる権威を持たない芸術に力はない。


 その日、帰宅するなり私は一枚のパステル画に取り掛かった。何を描いたのかよく覚えてはいないが、夕日のような情景だった気がする。しかし、出来栄えに満足できず、私はすぐにそれを捨ててしまった。

 芸術に見返りを求めてはいけない。これは確かである。しかし、何を根拠にそのような信条を持つべきなのか、判然としない。が、もしそれをすれば、私たちは人生における全ての責任を芸術に転嫁するようになるだろう。そのような懸念が、強くある。

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