十三話
風呂から上がると、リヴィングで赤ワインを口にする少女の母親と鉢合わせた。
「君も振り回されて、なかなか大変だね」
一見すると同情するような物言い。相も変わらず、実際にどう思っているかはちっとも伝わってこなかった。
「慣れてますから」
言いながら、頭に浮かぶのは少女のお願い。
いて。そんなただ一言から、泊っていけ、というお願い(あるいは少女の中での決定事項)だと知るまで、ほんのわずか。悪いし、色々とまずいんじゃないか、というかたちだけの抵抗をしてみせたものの、少女の母親は、別にいいよ、と二つ返事。頼みの綱に自宅に電話してみれば、出てきた母さんは、頑張ってきなさい、などと興奮気味に俺を送りだした。半ば諦め気味になりながら、まだ家に帰ってなかったらしい父親にもメールを出してみたものの、速攻で返ってきたのは、羨ましいなこの野郎、というこれまた理解に苦しむものだった。以上のような経緯から、外堀は埋められていき、着替えや歯ブラシがないから一回帰るという声も、こっちで貸すから、の少女の母親の一声により、正真正銘宿泊に対する障害がなにもなくなってしまい、ピザをごちそうになった上で、一番風呂まで譲られてしまい、今に至る。
「慣れてる、ねぇ」
含みのある風に口にしながら、ワイングラスを揺らす女性は、空いてる手で今座っている机の対面を示した。
「少し、付き合ってくれる」
「ええ」
断るのもなんだか悪い気がしたのと、この女性に対して少なからぬ興味が湧いてもいたため、素直に指示に従って、椅子へと腰を下ろす。少女の母親はこころなしか気分良さげに、グラスをこちらに向ける。
「なんなら飲む」
「未成年なので」
「バレやしないでしょ」
「楽しみは二十歳までとって置きたいので」
あからさまな嘘。実のところ隠れての飲酒の経験は何度かあるし、どれくらいで酔うのかというのもなんとはなしに知ってもいる。しかしながら、こと今日にかぎっては理性を手放すのはよろしくない気がした。
「ふぅん。意外に臆病なんだ」
忌憚のない感想といった感じのそれに、苦笑いで応じる。
「そうかもしれません」
「そうやって認めることで、自分を守ってるんだ」
目を瞑り、ワインを口に含む女性。
この時間はなんなのだろう。責められているのか、おちょくられているのか、説教されているのか。いまいち見えてこない。
「この前、電話越しに一声聞いた時から、一度会ってみたかったんだよね」
「それはどういった意味で」
「興味、かな。あの娘の彼氏っていうのがどんなもんなのかってね」
やはり探られているらしい。そう見当をつけつつ。
「それで、俺はお眼鏡にかないましたか」
失礼を承知で踏みこむ。相手の気分を害してしまいかねなかったけど、それも悪くないな、と思いつつ。
「あの娘が好きそうだなとは思う。私から見たら正直、止めといた方がいいって感じだけど」
返ってきたのは、何の忖度もない意見。
「手厳しいですね」
「親として娘の心配をしてるだけ。本気じゃない男にかける時間は、人生の無駄でしょ」
「自分なりに頑張っているつもりではあるんですけど」
「そうだね。あの娘のわがままには付き合ってあげているのはたしかだと思うし、その点は同情しなくもない。だけど、本気じゃないからどうでもいいこととして片付けてるでしょ」
人生経験ゆえか、あるいは俺の振る舞いが甘いのか。とにもかくにも、この女性の目は確からしい。女性はグラスを置きながら、頬杖をつく。
「別に責めてるわけじゃない」
さすがにそれは嘘でしょ。
「心配してるとは言ったけど、あの娘はあの娘なりに思うところがあって君を選んだんだろうし、私は君のママじゃないんだし君の生き方にどうこう言うつもりもない」
今の時点でけっこう色々言っているのでは。そう思ったものの、飲みこむ。少女の母親は、グラス越しにこっちを見る。ガラス越しの視線は、俺の目からはずれている気がした。
「その寝間着」
「貸してくれてありがとうございます」
「あの娘の父親のものなんだよね」
どこか物憂げな物言い。そして、言及された男性の不在。定型として無遠慮に尋ねるべきか、ほんのわずかに戸惑っていると、
「お察しの通り、あの娘が幼い頃に亡くなってるよ」
すぐさま答えが与えられた。
「それは」
「形だけの同情とか要らないから。それにこちとら、慣れきっているし」
そう切って捨てたあと、どこか皮肉気に笑う。初めて見る表情だった。
「あの娘はぼんやりとしか父親を覚えてないんだ」
「それが」
「そして、君はその寝間着がぴったりだ」
つまるところ。
「振舞いそのものはあの娘の父親に似ているかもしれないね」
中身は全く別人だけど。かつての夫である男に対する言の葉には、いつになく感情が籠っているように聞こえた。
俺は俺で諸々の謎が腑に落ちたのもあり、本格的に少女への興味を失いつつあった。
泊まるということで貸し出された空き部屋に入る。電気のついていない室内で、案の定、ベッドの上に少女が寝転がっている。
「君のお母さんが、次のお風呂どうぞだって」
これでどかせられないかと思ったけど、少女は微動だにしない。かといって、その両目に眠たげな様子はなく、むしろ煌々と輝いている。その眩しさに煩わしさをおぼえたけど、黙ってベッドに座った。ここは彼女の家ではあったけど、今日この日にかぎって言えば、俺の場所であるのだから。
予想通り、すり寄ってくる少女。先程の彼女の母の言が正しいとすれば、甘えているのだろう。ただし、その甘え方の質は、俺が今まで予想していたところのものとは大分、違いがあったみたいだったけど。
いつものように撫でもせずに、ただただなにも言わず、彼女に背を向けて転がる。諸々の準備を進めてきてはいるものの、分離できるのであれば、今日この日でも構わない。そんな気分になっていた。
後ろから強く抱きしめられる。振り向かず無視した。縋るような手つきには、いつもはない必死さのようなものを感じる。冷めていく気持ちと、なかなかやってこない眠気の間。
少女と別れる。次に彼女のクラスメイトの眼鏡の女の子とは、おそらく長くはもたないだろう。その先。その先はどうなるだろう。今みたいに、島から島へ、枝から枝へ、次の駅からその次の駅まで。当てのない放浪みたいな日々を、いつまで。
今まで背中にあった肉と熱が、体を飛び越えたかと思うと前面に回ってくる。自然と開いた目は、いつもの無表情を浮かべた少女をとらえる。こころなしか不機嫌そうな彼女は、暗闇の中で先程よりも強く目を光らせたまま、乱暴に俺の肩に手を置いた。
「して」
なにを、して、なのかははっきりと語られない。しかし、縋るような態度から察することはできる。
状況を振り返る。彼女の家。そう遠くない場所に母親がいる。少女の方は前のめり。俺はさほど乗り気じゃない。すべきではない。客観的に見ればそうに違いない。
けど、いつにない強い目の光。満月みたいなそれに、引きつけられる。ここ最近、ずっとあった退屈さが多少は薄れた気がした。
だったら、この気まぐれに付き合うのも、まあまあやぶさかではない。押し付けられる唇を啄む。蛇と蛇が絡みあう。この月並みな帰結に苦笑いしつつも、俺もまた彼女の肩へと手を伸ばした。
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