八話

 夏休みもあとわずかとなったある日。

 部屋の端、座布団の上で胡坐をかく少女は、電灯の引き紐の辺りを眺めている。厳密には見ていないのかもしれなかったけど、こうした振舞いに慣れきってしまっただけに、あまりまともに追及する気にも馴れない。それよりもだ。

「そろそろ帰らなくていいの」

 時刻は夜七時半を回った。夏とは言え、空も暗くなりつつある。もうそろそろ、両親が心配する頃合いじゃないだろうか。

「大丈夫」

 自分の太ももに手を置いた少女は、無機質に呟く。この言葉だけでは、なにが大丈夫なのかわからないじゃないか、と思ったあと、俺もまた言葉足らずだったのに気付いた。

「両親が心配するんじゃないかな」

 直接告げる。少女は一度だけ瞬きしたあと、再び大丈夫と繰り返した。

「なにが大丈夫なの」

「とまるから」

 素っ気ない声。脳が意味を受けとるのに時間差が発生したが、

「とまるって、うちに宿泊するって意味」

 俺なりに読み解いた解釈を伝えると、少女は無言で目蓋を閉じる。雰囲気で肯定の返事だというのは理解できた。

「いきなり、言われても困るんだけど」

「泊まるから」

 彼女お得意の同じ言葉責めがはじまる。とはいえ、今回ばかりは流されるわけにはいかない。特殊な事情があるならばともかく、年頃の女の子が彼氏の家に泊まるというのは、安易に通してはいけない気がした。

「泊まるって言われても、それこそ親御さんが心配するんじゃない」

 今のところ、俺は少女の親との面識は一切ないけど、さすがに男の家に泊まるともなれば心穏やかではいられないのではないか。そんな懸念に対して、

「もう言った」

 少女はしれっととんでもないことを口にする。

「言ったって、親御さんに」

 頷く代わりに、少女のスマホを手渡される。既にかけられている電話の先には、母と記されていた。いきなり出ていいものなのだろうか、と戸惑いつつも、とりあえず指示に従い、受話器を耳に当てる。

『もしもし』

「恐れ入ります。僕は」

 慣れない僕なんて一人称で状況を伝えようとしたところで、ああ、と低い声音。それはとても少女に似ていた。 

『君が彼氏君ね』

「えっと」

『今日はあの娘を頼んだからね。じゃ』

 言いたいことだけ口にすると、すぐさま電話は切られてしまう。再び少女の方に振り向けば、ね、とでも言いたげな風に俺を見やる。こころなしか自慢気な感じがする。

「事情はわかった。けど、ウチの両親にも聞いてみないと」

 一応、こう口にしてみるものの、実のところこの話は通ってしまうんだろうな、という緩やかな諦めがあった。というよりも、母も父もこの娘に甘いから、少女の家で話が通っているのであれば、もはや問題などないと喜んでしまうのが目に見えている。

 いいのか、これで。おおいに疑いながら、静かに天を仰いだ。


 /


 予想に違わず、両親は少女の宿泊を歓迎した。

 ちらし寿司と唐揚げ、鮪と鯛でもてなされた俺の彼女は、いつになくもりもり食べ、同じように出されたコーラを無遠慮に飲み、あからさまにゲップをした。品がないという俺の内なる感想は、目を細めた母の、いっぱい食べてくれて嬉しい、という笑顔と、お腹いっぱいじゃなければこっちでどうだ、なんていう刺身をすすめる父親の勢いで、口に出す機会を失う。とはいえ、彼女である少女のために気合の入った食事のおこぼれは、俺にとっても食べごたえがあって、胃と舌はおおいに満足したけど。

 

 食事を終えた少女は、両親の勧めで一番風呂を浴び、母から貸し出された白い寝間着姿で、再び俺の部屋のクッションの上に戻って胡坐を掻いている。

「ちゃんと、母さんの部屋で寝なよ」

 あらかじめ、両親と話し合って決めていたので、注意の意味を込めて言葉にしてみたものの、少女は聞いているのかいないのか、天井を見上げている。視線の先には、薄らとした染みがあったけど、たぶんそれを見ているんじゃないだろうな、と思った。

 俺は俺で両親の風呂が終わるまでの間、待ち時間があるため、なんとはなしに少女の対面に座る。夏休みの宿題は既に済ませていたし、だからといって予習復習という気分でもない。かといって、漫画を読むとか音楽やラジオを聴く気分でもなかったし、テレビゲームをしたいわけでもない(今まで何度か少女の前でやってみたり、一緒にプレイしないかと誘ってみたことはあるものの、基本的に見ているだけか、明後日の何もないところ眺めているだけだった)。かといって、答えが返ってこない少女に話しかけるのには、気疲れしているし、なんとなく彼女である少女もまた、天井を見上げる方に重要なんだろうな、という予感があった。

 なんとはなしにテレビをつける。学習机の横に置かれた小型のそれには、バラエティの少し捻ったどっきり企画が映されているみたいだった。さして、興味もないまま、惰性でぼんやりと経過を見守っていると、自宅に人がいたことに驚いた芸人が、ドッキリだとバラされて気付かない体でふるまっている。ノれてないなりにほどほどに笑いつつ、どこまでが仕込みで、どこまでが本気なんだろうな、みたいなことをぼんやり考えつつ、次の企画がはじまるのを見守っていたところで、肩に重みがかかる。見下ろせば、少女の頭があった。

「寝ないでよ」

 注意してみるものの、

「ねむい」

 無慈悲な答え。

「さすがにそれは困るからね」

「眠い」

「母さんの部屋で寝るって約束でしょ」

「ねる」

 もう既に決定事項だと言わんばかりの少女。これは最悪、抱えて運ばなければならないのでは、と万が一のための覚悟を決めながらも、策を練ろうとする。

「ここで、ねたい」

 はっきりとした意志を感じて、体が固まる。クーラーの冷気に包まれる中、少女の短めの毛髪越しに微かな熱がつたってきた。間違えようのない、彼女の願い。

 気持ちが冷める。小さくない落胆が染みわたっていくのを感じた。

 今日一日あったはずの、振り回されていた間の煩わしさすら愛おしい。

 少女の腰に手を回す。彼女は何の抵抗もなく受けいれるどころか、体を押しつけてきた。腑に落ちる感覚とともに、なんとかため息を抑える。

「仕方ないな。もう少しだけだよ」

 沈黙に、少女の肯定の気持ちを読みとりながら、俺は、あといくつかの手続きを済ませたら終わりだな、と感じた。




 

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