第2話 依頼人の本性は

「ふん、なるほど。響子さんは大変趣味の良い女性だったことがよく分かりました」

「何を見ているんですか、そこじゃないでしょ」

 我が探偵事務所所長は部屋に飾られた調度品やソファーの生地を撫で回している。その上あろうことか、クローゼットの中まで覗き見て、おそらくは衣服や下着の趣味まで観察している。私は一通り部屋を嗅ぎまわりソファーで寛ぐ男を尻目にデスクの引き出しや電話の留守電記録などを確認中だ。

 しかし思ったような物品は見当たらない。物品というのはもちろん、響子さんに他にお付き合いしていた男性がいるかどうかといった類の証拠品だ。

「響子さんからの手紙はどちらに置かれていたのですか」

「そのデスクの上です」

「その手紙は」

「申し訳ありませんが、手紙を見た瞬間にあまりのショックで握りつぶしてしまって。帰り道のごみ箱に捨ててしまいました」

「はあ」

 手紙が残っていれば何かしら微かな情報でも手に入れることが出来たかもしれないのに。私はますますこの依頼人のことを訝しく思った。

「まあ分かりますよ。それまで信じていた女性が突然姿を消す。しかも他の男と逃げたと書いている。言葉でなく、文字で残されたものをいつまでも大事に取っておくというのは耐え難い屈辱ですからね」

「屈辱というわけではありませんが」

 言い渋る依頼人を横目に賢崎は急に立ち上がると調理台のほうへ歩みを進めた。棚の中の食器、珈琲カップ、それから調理器具のフライパンからまな板まで一つ一つ手に取っている。

 だから、そこじゃないでしょ。

「響子さんは料理はお得意ですか」

「ええ。とても。彼女の作るチキンライスは最高です。本当に優しい味がする」

「そうですか。それは羨ましい限りです」

 賢崎は唸るように言って、フライパンの縁をなぞった。そして

「しかしどんなに愛しい彼女でも許せないんじゃありませんか。私だったら結婚式の前日にそのような暴挙に及ばれたら、愛しさ余って憎さ百倍。そうだなあ、このフライパンで頭を殴るくらいするかもしれませんね」

 見つめられた鷹取氏はごくりと生唾を呑み込んで、微かに目を見開いた。その反応を確認してから賢崎はフライパンをカウンターに載せる。微かに歪んでいるのが見て取れた。

 私は反射的に依頼人の顔を確認しようとして、寸前で押しとどまった。出来得る限り平静を装ってその横顔を盗み見る。相手は明らかに先ほどと様子が違っていた。唇を固く引き結んで視線を部屋の隅に外している。

「鷹取さん、もう正直に話してはくださいませんか。あなた、恋人を探しているには違いないが、彼女は自らの意思で消えたのではなく、無理やり何者かに連れ去られたのではありませんか。しかもあなたはその人物に心当たりがある」

「え!そうなんですか!」

 言われた鷹取氏は苦いものを噛み潰したような表情を浮かべている。

「あなた、一般人を装っているが、本当はかなり裕福な家庭で育っていらっしゃるでしょう。しかも人にはあまり探りを入れられたくないような家庭環境だ」

「何を仰っているんです」

「この部屋を見れば一目瞭然だ。どの家具も最高級。一般的な家庭で手に入る代物じゃない。これらフライパンもです。安く見積もっても二万円は超える。こんなものを七つも揃えて、汚れはほとんどない。まるでここにそもそも人など存在していなかったかのようだ」

「え、ってことはここは響子さんの部屋じゃないんですか」

「ああ。おそらく鷹取さんが昨日半日かけて仕上げた仮の部屋だろう。普段見慣れているものを誂えたから家賃と家具の値段がちぐはぐなんだ。ただしこの歪んだフライパンだけは彼女の愛用の品だろう。他と違ってごくありふれた物だ」

 道理で独り身の女性にしては出来過ぎている部屋だと思った。

 鷹取氏は観念したかのように項垂れてソファーに腰を下ろした。

「鷹取という名は偽名です。本当は高嶋。僕は高嶋財閥の人間です」

「高嶋財閥!」

 高嶋財閥といえば総資産数十億にもなるという有名な資産家である。

「そんな財閥のご子息がどうして」

「僕は本気で響子と結婚しようと思っていたんです。家なんて捨てて。彼女は僕の家で働くメイドでした。でもそんなことは関係ない。僕は響子をただ一人の運命の女性と思っていたのに」

「それをご家族はお許しにならなかった」

「ええ」

「それで響子さんはご家族が何らかの方法で連れ去ったとお考えなのですね」

「正確にいうと彼女は僕の目の前で連れ去られたんです」

「え、ということは犯人の顔を見ているわけですか」

「ええ。連れ去ったのは僕の執事である石神という男です。いつも僕の言うことに忠実で非常に優秀な男です。僕と響子のことを一番知り得ていたのも彼でした。まさか石神に裏切られるとは思ってもみませんでした。それに」

「それに?」

 依頼人である鷹取氏、いや高嶋氏はそれこそフライパンで殴られたかのように歪んだ表情をしている。

「彼女は、響子は抵抗することがなかった。石神の手をとって僕の前から姿を消したんです。僕はその際、フライパンで石神に殴られた」

「!」

 よもや本当に殴られていたとは思わなかった。

「もしかしたらあの二人は僕の知らないところで付き合っていたのかもしれない。そう思ったら居ても立っても居られなくて。忘れてしまいたい、そんな気もするし。でも響子の本当の気持ちを本人からは聞いていないんです。情けないと笑われてもしかたありません。でも本人の口から聞くまでは諦めるに諦めきれない」

「分かりますよ、分かります」

 幾多異性にこっぴどく振られても気にすることのない男が何を言う。しかし傷ついた高嶋氏はお花畑男の軽い同調に感動して涙している。

「男、というよりも、人間はある場面で潔さが大切です。ただしそれは精一杯今を生きた人間が納得した上でできることだ。今のあなたには砕けても構わないという覚悟が足りない。そこまで到達してから次の恋愛に走っても遅くはないでしょう」

「すみません。自分の家柄のこともあり、ことを大事にしたくなかった。それで伊達探偵ではなく、こちらの事務所へ。人に弱みを見せたこともなく、こんな偽りの部屋まで誂えて見栄を張ってしまいました。でもあなたに相談して良かった」

 ライバルの名を出され、賢崎はぴくりと頬を引き攣らせる。しかし、そんなこと全く気にしていないよ、という体を装って相槌を打った。

「まあ伊達という男を僕は昔からよく知っていますが、あいつはハードボイルドを売りにしているような男です。依頼人のためならどんな手でも使う。事と次第によっては響子さんの命も一つ、二つ消えてなくなるかもしれない。私に頼んで正解だったでしょう」

 そんなわけあるまい。任侠映画じゃあるまいし。第一人間の命は一つに決まっている。

 もはやどこから突っ込んでいいか分からないが、とにかく話を元に戻さなければならない。

「それで高嶋さん、本当に響子さんの行き先に心当たりはないんでしょうか」

「……少なくとも屋敷に二人の姿はありませんでした。高嶋家で息の掛かったホテルや旅館など姿を消せそうなところは、僕では調べることができない。何せ親族の誰が敵か味方か分からない状況なんです」

「なるほど」

 八方塞がりというわけか。

 賢崎は顎に手を当ててから、もう一度へこんだフライパンを見つめた。

「高嶋さん、あなた、響子さんはとても料理が上手だったと言っていましたよね。二人でどこか別のアパートかマンションでも借りていらっしゃいましたか」

「いいえ」

「ではどこでその手料理を召し上がられたんです。屋敷の中でこんな一般家庭で使うようなフライパンを使用して、彼女が勝手に厨房に入っていたとはとてもかんがえにくいのですが」

「それは厨房の料理長に許可を得たと言っていました」

「料理長に?ということは少なくとも料理長もあなたと響子さんの関係を知り得ていたということでしょうか」

「そこまでは何とも」

「ちなみにその料理長にお会いすることは可能ですか」

「それが本来であれば可能なはずなのですが、料理長は最近辞めてしまいました。今は新しい人間が長になっています」

「辞めた?それはいつ頃」

「響子が去って一週間ほど経った頃でしょうか」

「ふん」

 賢崎はここでフライパンを所定の位置に戻し、今度は左手の人差し指で頬を掻いた。それから少しばかり鋭い目つきに変わり、高嶋氏に体ごと向き直ると

「高嶋さん、もう一つ確認したいことが」

「はあ」

「あなた、響子さんとお付き合いをする前に、縁談話を持ち掛けられたことはありませんか」

「ええ、ありました。何件かありましたが、僕はまだ結婚には興味がありませんでしたし、いわゆる政略結婚をする気はありませんので断りました。両親は酷く怒っていましたが」

「なるほど。そのうち特に熱心だったのはどなただったでしょう」

「僕との結婚に、ですか」

 高嶋氏は明後日の方向を見て思案している。急に思い出したのか右の拳を左手の平に打ち付けた。

「刈谷家だった気がします」

「刈谷家って、あの財閥の刈谷家ですか。政界にも通じているんじゃないかって言われている?確か黒い噂もありましたよね」

 つい二人の会話に口を挟んでしまう。しかし今回は咎められることはなかった。

「ええ、あの刈谷家です」

「……なるほどね。高嶋さん、あなた、やはり私のところに依頼に来られて正解でしたね。この案件は伊達貴臣では荷が重すぎるでしょう」

 また例の自意識過剰が飛び出してくる。

「世の中正攻法では解決しない問題もあるからね」

「?」

「お任せください。数日のうちにあなたにとって本当に大切な人物を、あなたの元へ返しましょう。何があっても気落ちなさらぬよう。あなたの勇気に尊敬の念を払います」

 我が上司であり、探偵事務所所長は告げるなり、場を後にした。


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