4.時の魔法

 目を覚ますと目の前には微笑みをたたえた整った面立おもだちの女性の顔があった。赤いドレスからのぞく、か細い肩が華奢きゃしゃな印象をあたえている。

 彼女は長椅子のはしに腰をかけ、ニムはその膝に頭をのせて椅子の上に横たわっていた。


「目がさめたのね」


 彼女がニムの顔を覗きこむと柔らかい髪がニムの頬をくすぐった。うっすらと甘い香りもする。

 しかし、気分は決してよいものではなかった。

 ひどい頭痛がする。

 混濁こんだくした意識の中で自身のおかれた状況の把握すらままならない。


「ここは?」


 彼は頭部を片手で押さえながら、もう一方の腕で体をおこそうと力をこめる。

 しかし、腕にまったく力が入らない。自慢の二の腕はまるでゴムの塊かのように力なく重く、その役目を果たすことを放棄している。


「まだ起きてはだめ。そのまま横になっていなさい」


 彼女はまるで子供を諭すかのように優しく言葉をかけ、彼の頭をなでた。

 あの子に似ているな……。懸命に記憶を整理しつつ、目の前の彼女と先ほどの小さな少女をだぶらせてそう思ったが、ニムはそれを口には出さなかった。


「ここは……どこだ? あの塔の中なのか?」

「そうとも言えるし、そうではないとも言えるわ……」


 もったいぶるわけではないし、謎掛けをしているようでもなかった。説明が難しいわ、とはさみながら彼女は続ける。


「ここは時の魔法が作りだした、過去と現在の狭間はざまの空間」


 再度の問いかけにやっと得られた回答は、余りにも曖昧模糊あいまいもことしていてニムにとって意味をなさなかった。




 あらためて室内を見回すニム。

 そこは狭い牢獄のようなつくりの部屋であり、たった一つだけ長椅子がある他に調度品ちょうどひんの類は見当たらない。

 目の前には格子が存在したが、まるで紙で出来ているかのように厚みを感じさせず、ひどく頼りなかった。


 それは二人が腰をかけている長椅子も同じであったし、そもそもこの部屋自体も真っ白で凹凸おうとつのない空虚くうきょな空間だった。

 格子のむこうには天井も床もなく、距離感のはかれない白い空間が無限に続いている。

ともすればその真っ白な空間にたった一つ、この牢獄だけが宙に浮いているかのような錯覚を覚える。


 まるで虫かごに閉じこめられたコウロギの気分だ、彼は苦笑いを浮かべた。

 そして、マッコイがいたら不謹慎だと叱咤しったされかねない、と思ったところで二人の姿がないことにはじめて気がついた。


「二人は、マッコイとティルパはどこへ?」

「安心していいわ。あの二人は無事よ」


 彼女は微笑んだ。不思議なことに彼女にそう言われると何も根拠がないにも関わらず、ニムは心から安堵を覚えた。


「あの子はなんて?」


 ややあって彼女はニムに尋ねる。あの赤い服の少女のことをいっている、ニムはすぐに理解した。


「私のことを思いださせてあげる……、と」


 ニムが少女の言葉をそのままに伝えると、そう、と一言だけいって彼女は正面に視線を戻す。

 穏やかな表情にやや影が差していた。

 彼方を見つめるかのような眼差しは、遠い昔に想いをせる時のそれに似ている。


「あの子は誰なんだ? 俺は本当に何も知らない、覚えていない。そして君は――?」


 次第にはっきりしてきた意識が自分の置かれている異常な状況への警笛けいてきを鳴らしはじめる。


「仕方のないことなの。あの子が次の段階をむかえるために、そしてあの子が魔女の子であるが故に――誰もがあの子の存在を一度忘れなければならない」


 彼女は時折ニムの表情をうかがいながら戸惑うようにそう告げる。


「魔女の子……」ニムが重苦しくつぶやく。


「あの子にはそれがわからないの。いえ、頭では理解しているわ。だけれど……」


 彼女の頬を一筋の光が流れ落ちた。

 小さくかぶりをふって自身の言葉を否定しながら続ける。


「だからこそ、あなたには思いだして欲しいのよ」


 声をつまらせ、こぼれ落ちる涙を手の甲でぬぐいながら彼女はいう。


「俺はやはりあの子とどこかで会っているのか? そして君とも……?」


 ニムは答えを求めてじっと待ったが、彼女の唇はその問いに対することつむごうとはしない。

 ニムが再度の問いかけに口を開こうとしたとき、彼女は彼の唇に自分の人差し指を軽く押し当てた。

 そして視線で前方を見るようにうながしながら言った。


「見て、はじまるわ。始まりの物語が――」


 そこには真っ白な空間に浮かぶ黒い点があった。

 点は急速に膨張と収縮をくりかえしながら、二人を包みこんでいく。

 一瞬にして暗転する空間。


 それは舞台の開幕を告げる合図だった。

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