3.待チ人キタル
ニムとティルパがその階にたどり着いたとき、事態は彼らの想像をはるかに超えていた。
「なんだこれは――何がおこっているんだ……」
ニムの目の前には巨大な卵があった。
人の背丈ほどもあろうかという巨大な卵だ。
更にその周りを真っ黒な子供ぐらいの背丈の何かが手をつなぎ、輪を作っておどっていた。
「影、奪われた影……なのか?」ニムが誰にともなくつぶやく。
全部で十数体はいるだろうか。
そして踊りながら合唱団の発声練習のように、一人一人が異なる音階を奏でる。
少年少女だけが持つことを許された独特の柔らかいソプラノ。
その声が半円形の室内に反響していく。
それはまるで卵に捧げる
その中にたった一人、人間の姿があった。
「マッコイ……。なんだおっさん! どうした、どうしちまったんだ!?」
ティルパが声をかけるが、マッコイは全く呼びかけに応じようとはしない。
それどころか、薄ら笑いを浮かべて踊りを楽しんでいるかのように見える。半びらきの口元からは絶えず
「やばい、こりゃ絶対にやばいぜ……」
ティルパは辺りを見回しながら数歩後ずさりし、次の瞬間、部屋の入り口へむけて振りむきざまに走り出す。
両手で宙をかきながら倒れこむように走るその様は、
「あと一歩、あと一秒早く走り出していれば……」
しかし、彼がそう後悔をするのにさして時間は必要としなかった。
無情にもティルパの眼前で分厚いあわせ扉が、大きな軋みをあげて閉じてしまったのだ。
驚きの声を上げながらも必死に扉をこじ開けようとするティルパ。体当たりを繰りかえすが扉は
「ニム! どうすんだ、隊長さんよ? 命令してくれ、俺達はどうすりゃ助かるんだ!?」
ティルパが痛めた肩をおさえながら、立ちつくしたままのニムの体を乱暴にゆする。
黒い影のような生き物達の合唱は競いあうかのようにその声量を上げ、いまや耳をつんざく大音響へと成長していた。
二人とも両の耳を手でふさぎ、苦痛に顔をゆがめながらその場にしゃがみこむ。
そうして何秒、いや、何分たっただろうか?
いきなり立ち上がったティルパが判別不可能な雄叫びを上げ、影に向かって鉈を振り回しながら突進していった。
「やめろティルパ!」
ニムが叫ぶ。
しかし合唱の声にかき消され、ニムの静止は彼に届かない。ニム自身、正しく声を発することができたのかわからなかったぐらいだ。
狙いも定めず力いっぱいに鉈を振り回すティルパ。
影はその刃先を難なくかわすと四方へ飛びずさって、部屋の隅で床や壁に吸いこまれるように消えていく。
ティルパは鉈を構えたまま執拗に辺りを見回した。
ややあって影がみんなどこかへ消えてしまったことを確信すると、緊張の糸が切れたようにその場で膝を着いてへたりこんでしまう。
辺りは静けさを取りもどしていたが、なおも激しい耳鳴りが二人の耳を襲っていた。
「どうだ化け物め。やってやった、俺はやってやったぞ……」
あのニムでさえ動くことすらできなかったのに、
クククッと
ティルパの足元の影から黒い手がぬらっと突きだした。それは一本、また一本と増えていき彼の足に絡みついていく。
必死に払いのけようとするが、その手はティルパの足を万力のように締め上げてはなさない。
次いでその黒い生き物の頭部と思われる物体が現れ、そしていった。
「カラダ……ワタシノカラダ……カエリタイ……」
ティルパは半狂乱だった。
あわてて立ち上がろうとするが影の力に抗うことはできず、つんのめってそのまま前のめりに倒れこんだ。
勢いで彼の手を離れた鉈が弧を描いて飛んでいく。
鉈が卵に当たってはじけ飛ぶのと同時にニムは叫び声を聞いた。
それはまだ幼い少女の声であり、どこか聞き覚えがあった。
その瞬間、まるで暗い洞窟で突然光にさらされた
ティルパは影の群れに包まれながら気が遠のいていくのを感じた。そして力なくその場にくずれ落ちる。
ニムはその異様な光景を目前にしながら、声の主を思い出そうと必死な自分に気づき、はっと我にかえった。
すべては一瞬の出来事だった。
室内には気を失って動かなくなった二人と立ち尽くしたままのニム、そして巨大な卵だけが存在していた。
その部屋はまるで最初から何もなかったとでも言うかのように、完璧な静けさを取りもどしていた。
卵は鉈の当たった部分に少々の亀裂が入ったものの、割れることはなかった。
ニムはややあって思い出したようにマッコイとティルパにかけより安否を確かめる。
二人とも特に外傷はなかったが、マッコイのあの尋常ではない様子を見ている。精神に異常をきたしていても不思議ではなかった。それはティルパも同じだ。
幸い脈も呼吸も安定しており、表情も憑き物が落ちたように安らかだった。少なくとも命に関わるような状態ではないはずだ。
これ以上、ここにいてはまずい。
そう判断したニムが、まずマッコイから運びだそうと彼の腕を肩に回したそのときだった。
背中越しに自分の名を呼ぶ声を聞いた。
「来てくれたのね、ニム」
それは記憶の奥底に語りかける声だった。
さきほどの悲鳴の主に違いない、ニムには直感でそう理解する。
立ち上がり、ゆっくりと声のした方を振りむくとそこに一人の少女の姿があった。
赤い大きなとんがり帽子と外套を着こんだ髪の長いその少女は、
彼女はゆっくりとニムに近づき、その腰元に抱きつく。
村の少女ではない。全く見覚えのない少女であったが、なぜかニムはその行為に抵抗を覚えなかった。
「君は誰だい? どこかで会ったことが……」
記憶を探りながらニムは問いかける。
その言葉に少女はニムを見上げ、激しい
「メディよ、ニム。わたしを忘れてしまったの?」
メディと名乗った少女が再び、柔和な笑みをつくって問いかけるが彼はやはり思いだせない。
「すまないがお嬢さん、どうしても思い出せないんだ。勘違いじゃないかな?――」
言い終わるのが早いか、メディは帽子を乱暴に払いのけ、美しいブロンドの髪を左右に振り乱しながら叫ぶように言った。
「勘違いなんかしていない! あなたはニムじゃない! そうでしょう?」
気押されて声を詰まらせるニム。
「あなたが来てくれるのを待っていたのよ! 毎日! 毎日! 毎日! ずっと! ずっと! ずっと!」
「それなのに……」メディは少し声を落とし、悲しみの表情を見せる。
「みんな忘れてしまった。あなたまで――。あなただけでよかったのに……あなた一人が覚えていてくれたら、私はそれでよかったのに……」
彼女は定まらない視点でまるでうわごとのように続ける。
「大人になんかなるからよ。みんな私のことを忘れて、誰もいなくなって……」
少しの間があった。
「だから村の子どもたちは大人になんかなれないように、みーんな影を抜いてやったの」
一転、ニムを凝視し
「影を抜いた? あれを君がやったというのか?」
「そうよ。前にも一度同じことをしたじゃない」
彼女は何を当たり前のことをと言わんばかりにニムを
「本当に何のことかわからないんだ」
ニムは少女をたしなめるように少し語気を荒げる。子供の扱いには慣れている、そんな自負もあった。
彼女の
「あらそう」
次の瞬間、はき捨てるようにいった彼女の瞳は怒りからも悲しみからも開放され、冷静さを取り戻していた。
「なら、思い出させてあげる。私のこと全部」
彼女はニムの前に高々と手を差しだす。
横に傾けた手をニムのまぶたを下ろすような仕草でゆっくりと下げていくと、彼は気を失ってそのまま床にくずれ落ちた。
彼女はニムの上半身だけを抱きおこすと、愛しそうに両の肩へ手を回して抱きしめる。
薄れ行く意識の中で彼は聞いた。
「会いたかった……私のニム……」
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