【三十六.白鷺みそら・五】

 令和六年七月五日。金曜日。午後零時四十分。わたし、十六歳。

 ちゅっちゅ。この歳になってもわたしは指しゃぶりが治らない。期末テストが終わったから授業は午前中だけ。お昼前のホームルーム。先生が連絡プリントを回している。ちゅっちゅ。わたしは、指しゃぶりの親指を口から抜いて、回ってきたプリントを後ろに回す。なになに? 「進路相談会のお知らせ」……進路、かあ。わたし、これからどこに行けばいいんだろう。何をすればいいんだろう。バイトして、お給料もらって、定期買って、お母さんところ行って、かいちゃんのフリして泣いてるお母さんを抱きしめて。進路? 進学? 就職? わたしというこの地獄みたいな人生で、何ひとつイメージが湧かない。わたし、これからどうしたらいい?

 ……ああ。今日はなんだか、会いたい。りっくんに。会いたい。手を、繋いで欲しい。抱きしめてほしい。あの時みたいに、体を重ねてほしい。欲しい。りっくん。あなたが欲しい。欲しくて欲しくてたまらない……


「なーぎ、なに辛気臭い顔してんの? 久々に帰ろーよー」


 紗綾だ。見られた。わたしの弱い顔を見られた。


「いやっ」

「ちょ、ちょっとっ」


 わたしは思わず伸ばしてきた紗綾の手を振り払ってしまった。


「……はあ? なにそれ? ……もういいよ、行こ? 彩音」


 紗綾はへそを曲げて、友達といっしょにわたしから離れた。

 ……早く、早くお母さんのところ、行かなきゃ。

 そう思いながら、慌てて学生カバンに教科書を仕舞っていると、廊下が少しザワザワしている。


「荒浜ー?」


 この声は、小池くんだ。たしか、紗綾の元カレだ。廊下側に座ってる、小池くんが呼んだ。なんだろう。彼のウワサは紗綾を通じて聞いていたけれど、彼がわたしを呼ぶことなんて一度もなかった。……ともかく、わたしは彼のもとへ歩いた。


「なに?」

「荒浜にお客さん。一年生」


 ぎくり。

 心臓に、火をつけられたような感覚が、胸に燃え広がる。

 どくん、どくん。

 心音が早くなるのを自覚しながら、わたしは廊下に顔を出した。


「白鷺……みそらさん?」


 その子は車椅子に乗ってそこに居た。包帯とギプスで、左足と左手が固定されている。視線を上げる。おかっぱ頭の彼女と視線が合う。


「荒浜先輩」


 赤の縁のメガネの奥で、感情を感じさせない暗い目が、わたしを刺し、貫いた。


「お話があります。あなたの弟で私の大切な、蒼井……かいりについて」

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