【三十五.暗いワゴン車の中で・三】

 ワゴン車の中は、薄暗く、窮屈だ。

 ここはどこ? どこかの山の中に、くるまは停められているようだ。ひどいタバコの匂いで、うまく息が出来ない。頼りのお母さんもお父さんもいない。そして中にいる小さな頃のわたしは、裸んぼにされている。窓に小さな手をついて外に向かって叫んでいる。窓ガラスの、温度のないひんやりとした感覚が手に伝わる。窓の向こうには、中学三年生のおとうとが居る。眼窩がぽっかり空いた、眼球の無い顔で。こちらをいる。

 わたしは視線を下ろす。そして、左手に持っているものを見つめる。くるまの鍵。トヨタのマークの黒の持ち手に銀色の本体が鈍く光る、おもちゃみたいな鍵。


「ねえ、かいちゃん。これ、なに?」


 眼球のない、わたしの大切なおとうとは、車内のわたしにまた聞いてくる。


「何だと、思う?」


 わたしは、ハッと気づいて、周囲を見渡す。ドアをよく見ると、ロックがかかっている。

 え。

 わたしはおそるおそるロックを外す。がちゃ。知らなかった。


 ……この暗いワゴン車に閉じこもっていたのは、わたしの方だった。


 ……


「外に出ていいの?」


 わたしは、おそるおそる聞いてみる。


「出ていいと、思う?」


 目の無いかいちゃんが、言う。


「教えてよ、かいちゃん。ねえ、出ていいの?」


 眼球はないのに、その視線は突き刺さるように痛い。


「いまさら?」

「今更って、なに?」

「忘れんぼなのに? お姉ちゃん、全部忘れてるのに?」

「何を、忘れてるの?」

「それも忘れちゃったの? お姉ちゃん、本当に忘れんぼさんだね」

「ねえ、教えてよ、かいちゃん。わたし、どうしてもそっちに行きたいの」

「……お姉ちゃん、うちのこと、好き?」


 かいちゃんは、私を見ている。暗い穴から。


「うん、もちろんだよ」


 わたしはおとうとの問いかけに短く答えた。

 がちゃ。

 くるまのロックが外れた。

 わたしは、意を決してワゴン車のスライドドアの持ち手に手をかけた。


「お姉ちゃん」


 かいちゃんがもう一度、ドアを開けようとしたわたしを呼んだ。


「なあに、かいちゃん」


 わたしは、精一杯の柔らかい声で、答えた。かいちゃんに見せてきた中で、いちばんくらいに優しい顔をして。


「嘘はいけないよ、お姉ちゃん。お姉ちゃんの……嘘つき」

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