【三十四.お母さん・三】

 七月三日。水曜日。午後一時十一分。わたし、十六歳。


「お母さん、入るよ」


 多摩地域中央部。府中市にある多摩総合医療センター、精神科病棟六階の三号室。お母さんの病室。


「かいちゃん、おかえり。学校はどう?」


 お母さんの時間は、かいちゃんが中学三年生の六月八日で止まってしまってる。だから、わたしはかいちゃんの代わりを演じる。心が痛い。苦しい。大好きなかいちゃんのことを思い出さなくちゃいけないから。……けれど、それでも構わない。お母さんは、わたしに残された家族なんだから。


「うん、なら大丈夫。みんなと仲良くやってるよ」

「そお? でもお母さん、心配だなあ。ほら、このまえやすゆき君に酷いこと言われたじゃない? あんなに泣いて。お母さん、かいちゃんを守らないといけないの。あんな目に遭わせたくないの」

「ありがとう、お母さん」


 お母さんの心配が心に刺さる。正直、心苦しい。……でも、知らない名前が出た。かいちゃんの思い出はなるべく漏らさず知っておきたい。わたしは心配顔のお母さんから、話を聞き出すことにした。なるべく、やさしく。


「それで……なんだっけ。なんて、言われたんだっけ、うち?」

「あら、覚えてないのね……それなら、いいんだけど」


 ……だめか。でももしかしたら、かいちゃんはいじめられていたのだろうか。トランスジェンダーの人間に対する風当たりは、まだまだ冷たい。それも中学校だ。心無い言葉を投げかけられることだって数え切れないほどあるだろう。

 はあ。わたしはため息をついた……姉だというのに。世界でたったひとりの。たいせつなおとうとの。その自殺の原因すら未だに何もわからない。もちろん、思い当たることもない。


「でもほら、あの子だけは、かいちゃんのことわかってくれているじゃない?」

「あの子って?」

「何言ってるの、いつもそばに居てもらってるじゃない。そらちゃんよ、そらちゃん」


 ぎくり。

 わたしの心臓は、ちくりと針で突かれたように強ばった。


「ねえ……」


 もしかして……わたしは、おそるおそる、ある名前を口に出した。


「その子の名前って……白鷺……みそらじゃない?」

「今日はどうしちゃったのよ、もう」


 お母さんはため息をついて、蒼井かいりの目をじいっと見た。


「小学校の時からの仲良しさんなんて、みそらちゃんの他に居ないでしょ」


 そして優しいかいちゃんのお母さんは、心配そうにわたしの手をさすった。

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